沖縄県民大会、教員が生徒を「動員」
2010年7月8日7時55分配信 産経新聞
【揺らぐ沖縄 すり込まれた「反基地」】(上)
鳩山由紀夫首相(当時)が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設先を「同県名護市辺野古」と明言した直後の5月25日。名護市労働福祉センターは異様な熱気に包まれていた。
急遽(きゅうきょ)、沖縄県を訪れた社民党党首、福島瑞穂消費者・少子化担当相(当時)は、50人の住民を前に自説を唱えた。
「どんなことがあっても辺野古に基地は造らせない」
参加者が噴き出す汗をぬぐいながら始まった対話集会。沖縄県教職員組合(沖教組)に所属する男性はマイクを手にまくしたてた。
「米軍と自衛隊が(移設飛行場を)共用するという案もある。米軍はもちろん反対だが、自衛隊も受け入れられない。われわれの親兄弟は日本軍に虐殺されたんだ」
会場は一瞬、静まり返り、その後、大きな拍手がわき上がった。
「われわれはいつも犠牲者だ」
65年前の沖縄地上戦の悲劇への被害者感情を反対運動に重ね合わせる住民らの口からは「反日・反米論」が飛び交った。
4月25日、強い日差しのなか、同県読谷村(よみたんそん)の運動広場で普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設反対、県外移設を求める県民大会が開かれた。主催者発表で9万人余りが参加。那覇市内の40歳代の県立高校PTA会長によると、ある県立高校の男性教員が2年生と3年生の女子高生をドライブに誘い出した。2人は会場に着いて初めて県民大会に誘導されたことに気付いた。彼女たちは関心がなく、手渡された弁当を食べ、大会が終わるまで木陰で休んでいたという。
PTA会長は振り返る。「おとなしい子供たちを狙って誘い出したようだ」
■本土復帰で消えた日の丸
「(沖縄県)読谷村(よみたんそん)までの交通費やガソリン代は組合から支給されるので、みんなで大会に参加しよう」
「参加した先生は氏名の報告をお願いします」
30代の県立高校教員によると、普天間飛行場の県内移設反対を訴える4月25日の県民大会の直前、学校で毎朝開かれている職員会の後、男性教員からしきりに勧誘されたという。
この教員は参加を見送ったが、「言われるままに県民大会に参加した若い先生も多い。別の高校では、教員が『取材だ』と称して、写真部の生徒を動員したという話も聞いた」という。
「昨年、普天間飛行場の県内移設反対の署名運動に誘われた。県民大会前には『是非参加しましょう』という文書が校内で回覧された」。同飛行場にほど近い中学校の40歳代の教員も、こう打ち明ける。
◆安保闘争の亡霊
「普天間飛行場の県内移設反対運動の主導的役割を果たしているのは、沖縄県教職員組合(沖教組)や沖縄県高等学校障害児学校教職員組合(高教組)だ」
70歳代の元県立高校校長の男性はこう断じる。
「県内移設反対運動には60年安保闘争の亡霊が乗り移っている。自虐史観による反日教育を繰り広げる沖教組と高教組が、悲惨な地上戦を経験した県民の心に潜在する被害者意識をあおって反米軍基地運動に利用し、反日・反米闘争を激化させている」
戦後、米軍統治下にあった沖縄で、県民は一丸となって本土復帰運動に取り組んだ。その先頭に立ったのが教員たちだった。
沖教組のホームページや県教育委員会関係者によると、沖教組の前身は「荒れ果てた戦禍を取り戻すには教育にしかず」を合言葉に昭和22年に発足した「沖縄教育連合会」である。27年に「沖縄教職員会」と改称されたこの組織は、「日本人なのだから日本の教科書を使おう」と、東京から教材を“輸入”するほど親本土、親日本派だった。
本土復帰前から教員で、沖縄教職員会のメンバーだった高校の校長経験者はこう振り返る。
「われわれにとって日の丸は国旗で、君が代は国歌。教職員全員が率先して日の丸を掲揚し、君が代を斉唱した。日の丸のない家庭には教職員会で販売し、掲揚する竿(さお)のない家庭にはそれを提供した。教職員全員が日の丸と君が代を尊重し、本土復帰を目指した」
◆「祖国への歌」
沖縄教職員会は35年に「明るく楽しい歌声とともに、時代を担う子どもたちがすこやかに育つように」という願いを込めて、愛唱歌集を作成した。
そこに紹介された楽曲には、当時の教員たちの本土復帰への熱い思いが伝わってくる。
例えば、『祖国への歌』の歌詞の一部はこうだ。
〈この空は祖国に続く/この海は祖国に続く/母なる祖国わが日本/きけ一億のはらからよ/この血の中に日本の歴史が流れてる/日本の心が生きている〉
〈この山も祖国と同じ/この川も祖国と同じ/母なる祖国わが日本/きけ一億のはらからよ/この血の中で日本の若さがほどばしる/日本の未来がこだまする〉
このほか、『蛍の光』『荒城の月』『母さんの歌』『赤とんぼ』『月の砂漠』『雪のふる町を』『静かな湖畔』『大きなくりの木の下で』『通りゃんせ』『木曽節』などの童謡や民謡も数多く盛り込まれた。
前述の校長経験者は「とにかく本土に対する強い思いから、復帰を心の底から願っていた。海上で復帰運動をしたり、トラックの荷台に椅子(いす)を並べ、そこに座って日の丸を振って運動したりしたことを、今でも思いだす」と話す。
◆許されぬ歌詞
ところが、関係者によると、沖縄の本土復帰前年の46年9月、教職員会は解散に追い込まれ、沖教組が結成された。
沖教組は47年5月の沖縄の本土復帰を経て49年に米軍基地撤去などを求める闘争を全国的に展開するため日教組に正式加盟し、組織的に反米軍基地闘争や反日運動を開始した。同時に、子供たちに対し、反日教育を徹底して行うようになったという。
教職員会が果たしてきた使命に終止符が打たれ、県民に反日イデオロギーを刷り込む「機関」と化した。
当然のように、教員たちは日の丸を掲揚しなくなった。教職員会の愛唱歌だった『前進歌』の4番の歌詞「友よ仰げ日の丸の旗/地軸ゆるがせわれらの前進歌/前進前進前進前進輝く前進だ/足並がひとりでに自然に揃(そろ)う/だれも皆心から楽しいからだ」も削除された。沖教組にとって「仰げ日の丸の旗」は“許されない歌詞”だった。(宮本雅史)
普天間問題を抱える沖縄県では、昭和20年の地上戦の悲劇を根拠に反米基地闘争と反日運動が展開されている。背後には、沖教組と沖縄県高等学校障害児学校教職員組合(高教組)の姿が見える。沖縄の子供から日本人の誇りとアイデンティティーを奪う両教組の実態をリポートする。