大学は経営の戦略性に欠け、杜撰であるために、学生のキャリア育成を妨害している/井上 久男
現代ビジネス 2011年8月3日(水)7時30分配信
『キャリア妨害』(東京図書出版)という面白い本が自費出版で今年6月8日に出た。サブタイトルに「ある公立大学のキャリア支援室での経験」とある。読めば、横浜市立大学であることがすぐに分かる。
大学経営が戦略性に欠け、杜撰で、そればかりか人間性にも問題があるような教職員が跋扈し、その結果、本来ならば、若い学生が自らのキャリアを磨く場であるはずの大学が、学生のキャリア育成を妨害している実態を保護者や住民らに訴えるための書である。
本書の中では、「前例主義」、「形式主義」、「性悪説」、「人件費はタダ」、「コスト意識ゼロ」という5つのキーワードから、大学運営の実態がいかに腐敗し、堕落しているかについて具体的な事例やエピソードを豊富に掲げて示されている。
著者は菊地達昭氏(61)。1973年、北海道大学を卒業後、NECに入社し、主に人事勤労部門で32年間務めた。約5年間の米国法人での勤務経験がある国際派でもある。2005年にNECを退職し、その経験を買われて横浜市立大学に転職。キャリア支援の責任者として、学生の就職支援などキャリア開発に民間企業の発想を採り入れる改革を行った。2011年3月に同大を退職し、現在は他の大学で非常勤講師をしている。
筆者はこれまで、本コラムにて、大阪産業大学の実態など大学教育や大学経営の劣化の「惨状」を問題提起してきたが、本書を読むと、大学の教職員集団は、規律や社会常識が働かない「無法地帯」「犯罪者集団」を構成しているのではないかと改めて感じるほどだ。
現に『キャリア妨害』を読んでいた最中に横浜市立大学ではとんでもない事件が起こっている。その内容が凄まじい。朝日新聞や東京新聞の報道によると、今年2月にあった期末試験の会場で、その教授は学生に対して「ストーカー、犯罪者」などと発言し、試験後、教授室で、土下座させて頭を踏みつけ、頭を丸刈りにするように求めたという。その教授は男子学生がストーカーの加害者だと一方的に思い込んでいたという。頭を踏みつけるとは尋常な対応ではない。学生は精神的な苦痛を受けたとして、損害賠償請求の裁判を今年6月に起こしているそうだ。
さらに、筆者はこの本を読んで、今話題の経済産業省の改革派官僚、古賀茂明氏のベストセラー『日本中枢の崩壊』(講談社)を思い出した。『キャリア妨害』中で菊地氏が主張する内容は、かなり古賀氏の考えと近いように思えた。古賀氏は、まえがきの中で、こう指摘している。
〈 現在の国家公務員制度の本質的問題は、官僚が国民のために働くシステムになっていないという点に尽きる。大半の官僚が内向きの論理にとらわれ、外の世界からは目をそむけ、省益誘導に血道を上げているとどうなるか。昨今の日本の凋落ぶりが、その答えだ 〉
国家や省を「大学」、公務員や官僚を「教職員」、国民を「学生・保護者・社会」とそれぞれ読み替えれば、菊地氏と古賀氏の主張はそのまま重なってしまう。
せっかくなので、『キャリア妨害』の中からいくつかの事例を紹介しよう。菊地氏は横浜市大での約6年間を「エイリアンとの共同作業であった」と書いている。民間企業での経験が長い菊地氏にとっては、「未知との遭遇」でもあり、企業の常識では信じられないことの連続でもあった。読むと、笑えるが、これが最高学府の実態かと思うと、ぞっとする面もある。「頭脳の棺桶」とはまさにこのことだろう。
「多すぎる起案のハンコ」。開示を急ぐ就職情報の掲示でも起案で決済を持ち回る。内容によっては、12個のハンコをもらわなければならないケースもあったが、民間企業では課長一人が判断すればいいような案件も多かったという。ハンコが多い理由は、チェックを強化するのではなく、「責任回避のシステムではないか」と菊地氏は指摘している。
あまりにも起案件数が多く、しかも大勢でたらい回しにするため、重要な起案が紛失するケースもあった。Eメールで、「起案書が紛失して見当たりません。ご存じの方は誰々まで連絡ください」といった回覧が回るという。たとえば、本来ならば担当者が持ち回りで決済を受けるべき、経歴など個人情報が書かれたマル秘の非常勤講師採用の起案書が紛失したこともあるというから信じ難い。
さらに外部講師に出すペットボトルの水の購入や、キャリアサポーターとして土曜日にボランティアで後輩に指導するOB・OGに出す昼食の出前にも見積もりを取らなければならない。近所のパン屋が三文判を押して見積書を持ってきたが、社印がないと認められないと経理部門が言い出した。パン屋は個人営業なので、社印がなくて困ってしまった。本質より手続きを重視する姿勢丸出しで、かえって労力がかかる。税金で給料をもらっていながら「人件費はタダ」という発想の「賜物」なのだ。
見積もりを取りながら、実際には高い買い物をさせられているケースもあった。インターネット経由で勝った方が安い事務用品等でも、大学が求める3点セット「見積書、納品書、請求書」を整えてくれる業者から高くても買うというのだ。出張のケースでも、正規料金より安いパック商品があっても、「それ以上に安い商品があったら住民に説明できない」というおかしな理由からパック商品の購入は認められない。
実際、事務用品はいつも特定の1社から購入していたが、その業者がなぜか他社の見積書を一緒に持ってくる。菊地氏は、この業者が他社から白紙の見積書をもらい、金額を書きこんでいるのではないかと疑っていた。実際、いつもこの特定の1社の金額が一番安い額となっているのが不自然だった。談合に近いようなことをやっているのではないかとの疑念を持っていたのだ。
証拠はなかったが、菊地氏が疑念を抱いてから2年後、横浜市大で「架空発注事件」が発生した。大学付属の市民総合医療センターの前院長が事務用品会社に架空の発注をし、大学側から振り込まれた3500万円が業者の口座に「預け金」としてプールされていた問題だ。この事務用品会社が、先に述べた見積書を一緒に持ってくる「特定の1社」だったのだ。見積書など形式だけを整えるだけで、実際には税金が杜撰に使われていることを示す一例と言えるだろう。
関係者は戒告などの懲戒処分にされたが、軽い処分だと筆者は感じる。民間企業なら、背任や詐欺の疑いをかけられ、場合によっては刑事告訴されるかもしれない。
職員の意識や能力の低さも菊地氏は問題視している。「ベンチマークしなさい」と指導しても、その意味が分からず、駅のベンチに印を付けることだと思っている職員がいたというから、これには笑える。また、大学の人事課長が「キャリアカウンセラー」の意味も知らなかったという。
こうした能力の低さが、コンプライアンス上の問題も引き起こしている。菊地氏が転職した際に、口頭レベルでは簡単な説明があったが、給料などの労働条件を正式に示さないばかりか、採用された後に、3年の契約社員であることを知らされたという。労働基準法や施行規則では、書面での提示を義務づけている労働条件もあり、明らかに法律上問題のある行為と言えよう。
労働法に詳しい菊地氏は自分の身は自分で守る術を身に付けているが、問題視しているのは、大学に採用される新卒のすべての職員が3年契約の非正規雇用となっているのに、大学側は「正規職員で、契約回数に制限はない」と誤解を与えるような説明しているという点だ。正規か非正規かは大きなポイントであるはずだ。大学運営の将来を担う人材に育成しようと考えるのであれば、菊地氏は全員を正規雇用で採用すべきではないかと考えている。
ここまでは主に、職員の無能、堕落ぶりを示すものだが、教員の発想や行動も「アンビリーバブル」なもの、世間の常識からずれたものが多い。
ある時、文部科学省から義務付けられている卒業生の進路調査をするために、菊地氏は学長以下教員が出席する会議で、情報収集の協力を求めたら、ある学部長が「個人情報の収集には学部としては一切協力できない」と言い放った。卒業生の進路情報は、進学を目指す学生や保護者にとっては参考にしたいデータであり、大学教育の成果の一つと言えるものだ。外国人の学長(当時)は十分に意味を理解していたが、教育現場がその意義を理解できなかった。
仕方なく、菊地氏は協力的な教員を探し、個人レベルで情報を収集し、ほぼ100%の進路情報を獲得できた。すると、その協力を拒否した学部長から、様々な指標で大学を評価したいので、その進路調査のデータが欲しいと言ってきた。菊地氏は「年金の掛け金を支払わないで年金をくれと言っているようなものである」と「断罪」している。
さらに、菊地氏は、横浜市大が学部を再編し、国際総合科学部を新設したのに、グローバル競争という視点が教員から欠落していることも問題提起している。人気が高い、ディズニーワールドでのインターンシップとノースカロライナ大学への留学を組み合わせたプログラムに学生を派遣することが理事長や学長の判断で決まったが、前出の学部長が1年半も継続審議にしたまま何も前に進んでいないようなケースもあった。
一流大学では、海外の一流大学との国際提携を増やして、単位の互換を認めるなどのシステムを導入するケースが増えているが、横浜市大ではこうした取り組みが遅れていた。こうした話を菊地氏が学部長にすると「横浜市大からハーバード大学に留学できる学生はいない」と言い放ったという。菊地氏は「留学できる学生がいるかどうかではなく、システムとして認定できるかが重要。学部長らの不作為な行動が結果として学生のキャリア形成を妨害している」と語る。
菊地氏が最も主張したいことが、本質的なコスト削減を無視した杜撰な大学運営をしておきながら、教育という大学の根幹をなす分野でコスト削減をし過ぎて、学生のキャリア育成を妨害している、ということである。
たとえば、再編による国際総合科学部の誕生によって、取得できる教員免許数が削減された。それまでは、司書や高校の地理歴史・公民などの免許が取れていたが、取れなくなった。さらに大学側が厚生労働省に提出する「単位読み替え」などの手続きの不備によって、横浜市の社会福祉職を希望する学生に受験資格がないことが分かったケースも起こった。
菊地氏は「横浜市の税金で運営されている大学で学ぶ学生が、大学側が事務手続きを怠っていたために横浜市職員の受験資格がないというのはアンビリーバブル」と指摘している。
その他にも信じられないような事例が多々紹介されている。医学部出身の前副学長が自分の娘の博士論文の審査に「副査」として参加した非常識な問題や、他の教授らも含めて医学博士号と引き換えに学生に金銭を要求した「事件」など挙げればきりがない。金銭を授受した教員はもちろん懲戒処分(停職)を受けているが、自ら退職願を出すことで退職金は受け取り、中には名誉教授の称号を得ている人もいる。
金銭授受の指摘を受けた教員の中には処分が出る前に退職し、後で返り咲いて脳血管医療センター長に就任したという。何と身内に甘いことか。こんな破廉恥な「事件」を起こしたら、民間企業なら即刻クビであろうし、社会的な地位は封殺されるべきである。
菊地氏は建設的な提言として、大学に「経営監査委員会」を設置せよ、と掲げている。そこには経営の分かる有識者と、保護者や住民の代表を加えるべきだとも主張する。「大学の質が低いことで被害を受けるのは、学生と保護者と住民である」と菊地氏は指摘している。
『キャリア妨害』は、横浜市大だけの問題ではないように筆者は感じる。大学崩壊が、社会を支える人材育成力劣化の一因にもつながっている。納税者、保護者は大学の運営にもっと目を光らせよう! 今の大学は「良識の府」であると信じてはならない。