大阪W選挙の争点 教育議論には根拠が足りない
WEDGE 2011年11月25日(金)14時14分配信
橋下徹・大阪府知事(役職名などは編集当時。以下同。編集部注)の率いる地域政党・大阪維新の会が、職員の処分基準を明文化した「職員基本条例案」と、教育に政治的に関与することを表明した「教育基本条例案」を成立させようとしている。
両条例案では、府幹部や校長を内外から任期付きで公募するルールを盛り込み、全校長を任期付きで公募し、若手教員や民間から積極登用するという。また、5段階の相対評価で2年連続最低ランクの教職員を分限処分の対象とするともしている。さらに、知事や市長などが学校の教育目標を定め、その目標を実現する職責を果たさない教育委員を、議会の同意を得て罷免できるとしている。
この改革案に対して、教育委員会や教育関係者は強く反対している。そもそも、教育委員会は、政治が教育を支配した戦前の軍国主義の反省に立ち、戦後、合議制の独立組織として各自治体に設けられたもので、「首長が代わるたびに目標が変わるのでは、教育の安定性や継続性が損なわれる」と批判している。しかし、実際の教育委員会は、非常勤の5人程度の委員が月1〜2回会議を開いているだけのことが多く、独立どころか、文部科学省の教育行政を追認しているだけだとの批判もある。
こうした反対論を、条例案は「政治が教育行政からあまりにも遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかった」と批判し、「政治が適切に教育行政における役割を果たす」としている(以上は、各紙報道による)。
橋下知事の教育委員会に対する反発は、知事の目指した「学力テストの学校別成績公表」に教育委員会が反対したことから始まっているように思われる。条例案にも「学力テストの学校別成績公表」が盛り込まれている。府教委は、当然、条例案にある学力テスト結果の公表政策についても「学校を序列化するものだ」と批判している。
これに対し、橋下知事は、現行の教育委員会制度について、「保護者の感覚が届ききっていない」と指摘し、「教育行政は世の中の風にどれだけ触れているのか。選挙で通った維新メンバーの主張こそが、普通の府民感覚だ」と正当性を訴えた。
◆学校にできることはそもそも少ない
多くの府民は、右であれ左であれ、極端なイデオロギーには賛成していないだろう。維新の会も、それに投票した人々も、軍国主義にも戦後直後の教育界で盛んだった左翼イデオロギーにも賛同していないだろう。首長が教育目標を定める規定があっても、左右のイデオロギーに従った目標を掲げるとは考えられない。勉学のレベルや生活習慣についての目標になるだろう。目標自体は争点にはならないだろう。
おそらく、大部分の府民の感情は、教師がきちんと教えていないのではないか、教師という公務員が、雇用の安定を守られ、一般府民より高い待遇を受けているのにきちんと働いていないのではないかというところにあるのだろう。大阪府の教育改革とは、公務員バッシングの一環であると言える。
こう考えると、両者が歩み寄る余地もある。まず、知事の教員評価は極端だ。5段階の相対評価で、2年連続で最低評価(下位5%)の教職員を分限免職の対象とするという。こうできたら良いのにと思っている民間企業の経営者がいるかもしれないが、実際にしている企業は聞いたことがない。外資にはしている企業があるかもしれないが、おとなしく辞めさせるために退職金の割り増しなどの金はかけている。
府の他の職員は、こんな酷い目には遭わないのだから、教員だけに厳しくするのは不公平でもある。さすがに橋下知事も、「(5%と)数を決めるのは確かに乱暴。絶対評価に直す代わりに審査を厳しくする」と変えたようだ。
これまで、セクハラ教師や授業をしない教師も辞めさせることができなかったのは事実で、それを改めさせるのは良いが、あまりに極端なことをするのは混乱が大きいだろう。
すると、最も大きな問題として残るのは、生徒の学力評価と教師の評価を結びつける考えだろう。しかし、そもそも生徒の学力の大きな部分は、子ども自体の素質と家庭環境で決まってしまう(小塩隆士・北條雅一著『学力を決めるのは学校か家庭か』財務省財務総合政策研究所、2011年4月)。
人々は、理想の教師に会えたことで、貧しい子どもやぐれそうになった子どもが勉学意欲に目覚めたり、まっとうに生きる道を選んだりするという話が大好きだが、美談は数が少ないからこそ美談なのである。学校のできることはそもそもそれほど大きくはないのだ。
学校の学力テスト公表は、下位校に烙印を押す行為かもしれない。しかし、多くの府民は、どの学校の学力が低いかをすでになんとなくは知っている。下位校の明確な順位を明らかにすれば、そこからどれだけ引き上げることができたかを認知することができる。なんとなくでは分からないことが分かる。
確かに、ただ序列を付けられることを学校が嫌がることは分かる。しかし、橋下知事は「成績を全部オープンにして、平均より点数が低い地域に金と人を投入して平均点を上げる方がいい」と言っている。これはイギリスのブレア政権が行ったことだ。
◆サボられてきた教育効果の検証
もちろん、成績の向上と教師の評価をリンクさせることは難しい。そのような政策を行っている学校では、先生が生徒の解答を書き換える、答えを教える、成績の悪い生徒を休ませるなどの不正行為がなされることは珍しくない。しかし、だからと言って、評価が難しいから評価しないというのはおかしい。
そもそも、これまでの教育論議には、証拠に基づいて議論しようという姿勢がまったくなかった。公立高校の無償化、35人学級制、教員養成課程の6年制化などの政策についても、それで子どもの学力向上など、どのような成果が上がるかを実証的に議論する姿勢はまったくなかった(赤林英夫・荒木宏子「『検証なき教育改革』を繰り返さないために」〈『季刊政策分析』11年5月号〉)。
教育関係者は、政治が恣意的に教育に介入すると批判するが、教育関係者の政策論は、そうなれば良くなるという根拠のない思い込みに基づくものにすぎない。少人数学級で教育効果が上がるかどうかは、本来調べることができるものであるにも関わらず、文部科学省は、このようなデータを収集することがなかった。
教育が政治の恣意を嫌うなら、教育も思い込みを捨てて、証拠に基づく教育政策という考えを受け入れるべきだ。大阪の教育維新が、このきっかけになれば良い。
筆者:原田 泰(東京財団上席研究員)
(月刊「WEDGE」12月号「経済の常識 VS 政策の非常識」)