現役小学校長が、組み体操「巨大人間ピラミッド」廃絶を訴える理由
現代ビジネス 2019/6/16(日) 8:01配信
人間ピラミッドに見え隠れする「思想」
運動会につきものとされる「組み体操」、とりわけ巨大人間ピラミッドの問題点が指摘されるようになって久しい。
この6月11日には、大阪府教育庁が府立学校に対して、人間ピラミッドやタワーの「原則禁止」を通達した。昨年度、府内で383件もの事故が発生し、100件以上の骨折があったことが理由という。
しかしその一方で、教育界ではいまだに、組み体操へのこだわりが消え去ったわけではない。内田良氏(名古屋大学准教授、教育社会学)によると、一部の地域ではむしろ巨大化、活発化さえしているようである。そこには一体、何があるのか。
おそらく、組み体操の危険性をいくら訴えたところで、巨大化は止まらないだろう。また事故が起きても、現場では「安全対策」が講じられ、再び巨大化していく――。私も一教育者として実感するところだが、教育現場における組み体操の人気は、それほど根強いものなのである。
そもそも、「安全性が確認された」ならば、組み体操や巨大人間ピラミッドは問題ではなくなるのか。私は、たとえ安全であったとしても、子供たちの体育において巨大人間ピラミッドのような種目を実施するべきではないと強く感じている。
巨大人間ピラミッドを、あえて教育現場で実施する、その教育上の目的はどこにあるのか。子供たちに何を学習させようとしているのか。
おそらく、推進する人々の多くは、その根拠として学習指導要領の「特別活動」のくだりをあげるだろう。
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(3) 健康安全・体育的行事
心身の健全な発達や健康の保持増進,事件や事故,災害等から身を守る安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するようにすること。(学習指導要領第6章第2「学校行事」より)
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しかしそこには、本当に体育的視点があるのだろうか。
巨大人間ピラミッドにおいては、下の子供はただひたすら重量に耐え、上の子供は落下の恐怖と戦う。そこに、ある「思想」が見え隠れしていることに、推進する人々は気づいていない。教育観、人間観と言ってもよい。体育的視点から言うと身体観でもある。
子供たちはブロックではない
まず第一に、日本の体育は、子供たちがそれぞれに異なる身体を有する「人間」であることを無視している。
子供たちの顔や性格がそれぞれ違うように、身体も体力もそれぞれ違う。それが「人間」の身体であり、彼らは無機質な機械ではないし、ロボットでもない。
これほど「個性尊重」「一人ひとりを大切に」と言っておきながら、運動会となるとその教育理念を忘れてしまう。「異なる身体」は子供たちの「個性」でもある。体力も同様に「個性」であり、規格化することは不可能である。
しかし組み体操では、それを無視して、ピラミッドの一部となる子供たちの身体が一律に重量に耐えられると見なす。
硬く無機質で、ものも言わない、感情も持たない――そのような「ブロック」であるなら、5段10段と積み上げることはたやすいだろう。しかしそうではないのだ。ピラミッドを指導する教師たちは、あたかもコンクリートや鉄の塊のように子供たちの身体を見てしまっていることに気づいていない。
このように身体を「一律」に捉えようとする身体観は、戦時下における徴兵検査を彷彿とさせる。ある一定の基準を満たした体格と体力のみが「合格」とされ、「一律」の身体が代替可能な部品のように集められた時代。組み体操に底流する身体観は、戦争の時代を思い起こさせる。
その一方で、実際には、戦前あるいは戦時中に組み体操が盛んに実施されたという記録はない。
日本で巨大人間ピラミッドが実施された最古の記録は、1905年、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)男子部がマスゲームで披露した「人梯(じんてい)」である。戦前〜戦時中には、人間ピラミッドはあくまで体操の専門教育を受けた屈強な大学生がデモンストレーションとして行うものであり、高さも5段程度だった。
戦後、1951年の文部省の「中学校高等学校学習指導要領 保健体育科体育編」に初めて組み体操と人間ピラミッドが登場する。それでも長い間、教育現場で人間ピラミッドが実施されることはあまりなかった。1960年代の学習指導要領からは、組み体操そのものが消えている。
授業の場で行われなくなった組み体操は、運動会という新たな居場所を見出したのかもしれない。いつ、どこの運動会で人間ピラミッドが始まり、そしていつ巨大化を始めたのかについては、今後の研究が必要だ。ただいずれにしても、意外にも巨大人間ピラミッドの歴史はそう長いものではないのである。
スポーツに「服従と抑圧」は必要か?
組み体操の教育目的としてよく挙げられるのが、「仲間との絆を深める」「みんなでひとつのことを成し遂げる達成感」「努力の意義を学ぶ」などである。だが何も、巨大人間ピラミッドでなくても、これらを教えることはできるのではないか。
巨大人間ピラミッドが象徴する教育観。それは、子供たちを従順な、画一化された存在とすることにあるように思われる。確かに、教育現場でそのような意図が明言されるわけではない。現場の先生方が、そんなことなど考えてもいないことは私も承知している。
教育の当事者は「抑圧している」などとは考えてもいないのに、意識してもいないのに、なぜいま組み体操や人間ピラミッドに違和感を抱く人が増えているのか。
おそらく、近代以降の学校という空間に、人々を抑圧し、画一化し、服従させる文化が溢れていること、それが現在もなお社会の根っこに横たわっていることに、私たちも薄々気づいているのであろう。
教育関係者だけの問題ではない。抑圧、服従は、日本の学校文化の象徴となってしまっている。学校とは長らく、「そういうところ」だったのである。
近年は運動会が日差しのまだ強くない5月、6月に開催されることも多くなってきた。新学期がはじまり、クラスや担任の先生が替わり、子供たちは落ち着かず、浮ついている時期である。
落ち着かないクラスを一致団結させ、一体感を醸成するのに、巨大人間ピラミッドは役に立つ――そう考える先生方もいるかもしれない。夏休み前までにクラスを形作り、2学期を無事に過ごして、年度末までこぎ着ける。子供たちの心を何とか一つにするための方策、組み体操や巨大人間ピラミッドには、そうした効果も確かにあるのかもしれない。
だが、たとえそれによってクラスがまとまったとしても、またいじめや不登校の抑止力として有効であったとしても、人間を「ピース」のように見立てることが子供たちの将来に、そして社会に何らかの負の影響をもたらさないと言い切れるだろうか。
学校によって植え付けられた無意識の服従や抑圧の経験が、彼らが大人になったとき、「理不尽なことにも耐えなければいけない」「自分の意見を言ってはいけない」という考え方につながっていくのではないかと、私は危惧する。
社会を変える決断になる
昨年5月、日本大学アメリカンフットボール部員の「悪質タックル」が社会問題化したのは記憶に新しい。そのとき選手らは、コーチや監督に何も言えなかった。問題が表面化した後、選手らは「指示があったことを前提に、大学は真実を話して欲しい。僕らは監督、コーチの駒ではない」と発言している(朝日新聞、2018年5月18日)。
この証言からわかるように、選手らは、自分たちが監督やコーチにとって「駒」に過ぎない、と感じていた。これは単に日大アメフト部に限った問題ではなく、広く日本のスポーツ界に未だに蔓延る、重大な問題である。
スポーツ指導者の暴力や暴言がなかなか根絶されない背景には、若者を「駒」と見なす思想がある。個人の意見を表明することが許されない選手たちは、巨大人間ピラミッドの「ピース」にされている子供たちの延長線上にいる。
ゆえに、教育界が巨大人間ピラミッドと決別することは、スポーツ界、ひいては日本社会全体の空気を変える力を秘めているかもしれない。それほどまでの大きな影響力を有する決断だと、私は考えている。
もし実行されれば、その影響力は教育現場、スポーツ界にとどまらない。なぜならば、多くの国民が(巨大ではないにせよ)小学校、中学校、高校いずれかのタイミングで人間ピラミッドを経験しているからである。いまの大人たちの身体にも、抑圧と服従はしっかりとしみ込んでいる。
巨大人間ピラミッド的な人間観は、日本社会にとっては都合のいいものなのかもしれない。人間を駒やブロックのピースのように扱い、戦時下の一兵卒のように代替可能な部品と考え、働けなくなり、使えなくなれば次の「誰か」を簡単に求める。
そのような貧弱な人間観に支えられた社会では、規格さえ合えば「誰でもいい」。一人ひとりのことを考える余裕はない。その日、その月、その年の成果だけが大切なのである。
巨大人間ピラミッドが教育現場から姿を消すことが、そうした社会を見直すためのきっかけになるかもしれない。ただ、それにはまだ時間もかかるだろう。
その道筋をつくるためには、これからの体育や運動会がどうあるべきかについても、提言が必要である。最後に、体育的視点を強調しながら私見を述べておきたい。
これからの「運動会」のあるべき姿
前述した通り、学習指導要領において運動会は「特別活動」と位置づけられており、そこに記載された教育目的を根拠に、その意義や価値が主張されてきた。具体的には、下記のようなものだ。
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学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。((学習指導要領第6章第2「学校行事」より))
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だが運動会は、子供たちの「運動する」姿をもって構成される教育空間である。一人ひとりが主体的に取り組み、青空の下でその身体を遺憾なく運動させ、元気はつらつとした姿を展開するのが、あるべき姿のはずだ。「運動」することよりも「耐える」ことに重点を置くのならば、それはもはや「運動会」の名に値しないであろう。
加えて、昨今では大人のスポーツに対する取り組み方も変化し、生涯スポーツを実践する人も増えている。生涯にわたってスポーツを楽しむための基盤を形成すべき子供時代に、一体、巨大人間ピラミッドの実践はどのように位置付けることができるのか。
新しい動きが出始めている。近年は、従来のような伝統的種目で構成された運動会ではなく、球技や陸上競技などのスポーツ種目を主とした「スポーツ・フェスティバル」を、生徒主体で運営・実行させる中学校も増えてきた。
これにより、教員側の負担も軽減されているようだ。何より体育的視点から言っても、生徒たちが将来大人になり自立したとき、どのようにして自主的にスポーツに取り組み、楽しんでいくべきか、そのノウハウを学習する絶好の機会にもなる。
つらい仕打ちに耐え、服従するような体育だけでは、生涯スポーツの形成に向けた重要な資質の育成が望めないどころか、むしろスポーツを嫌いな大人をどんどん社会に送り出すことにもなりかねない。スポーツの大切さや楽しさを心から理解し、支えてくれる国民がまだまだ少ないことには、こうした古い体育のあり方もきっと関係しているだろう。
運動会が子供たちの躍動と笑顔で満ちるものになった時、初めて日本の学校教育、そして日本社会は変わっていけるかもしれない。もちろんスポーツ界も変わることを期待したい。
運動会とその実施種目のあり方は、それほどの大きな責任を負っている。巨大人間ピラミッドが危険か、安全か――もはや論点はそこではないのだ。
鈴木 明哲