30年前のあの日、枕元に置いた電話のベルで叩き起こされた。受話器を取ると、捜査関係者の怒気がこもった重たい声が耳に飛び込んできた。「やられたぞ、サリンだ!」。すぐには事態をのみ込めなかった。「狙われたのは霞が関!」。1分に満たない通話で眠気は吹き飛ばされた。 2日後に強制捜査を控えたタイミング。しかし、警察当局は当時、松本智津夫元死刑囚=教祖名・麻原彰晃=の所在を把握できていなかった。「麻原はどこで事件のニュースを見ているのか、次は何をやってくるのか、不気味さが募るばかりだった」。当時の捜査員の一人は振り返る。 一連の捜査で、教団関係先への家宅捜索は警視庁だけで数百回。教団はその都度、令状を写真に収めていた。記載されていたのは、許可を出した裁判官の他、請求者である司法警察職員の名前。教団の標的にならないか危惧する声も出ていた。 最前線にいた捜査員の頭をよぎっていたのは、裁判官官舎を攻撃対象とした前年6月の松本サリン事件。「サリンがまだ残っている可能性があった。警察官舎がやられるかもしれない」。3月30日に警察庁長官銃撃事件が発生したこともあり、転居した警察関係者もいたという。 総力を挙げて教団を追い込んでいった警察。一方、その攻防を注視していた法曹関係者の一人は「微罪逮捕を繰り返すなど、むちゃくちゃな捜査だった。化学兵器を使った事件を再び起こされ、批判が高まることへの焦りが強く感じられた」と捜査の在り方を批判した。 事件を教訓に、科学捜査の能力が拡充されたほか、警察法も改正。十分な捜査態勢を持つ警視庁による管轄外捜査が容易になった。しかし、教団問題に詳しい関係者は「それらはあくまで捜査面であって、事件を防ぐことにはならない」と指摘。「格差は拡大し続け、多くの若者が今もカルト団体に吸い寄せられている。社会のありようが問われているのではないか」と話した。(文化社会部専門委員・小池 聡)