ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(137)

策動続く 国交断絶宣言と同じ一月二十九日、枢軸国の公館(大使館、総領事館、領事館)は、ブラジル政府から、総て閉鎖を命じられた。 日本の公館では、屋上の竿頭に翻っていた日章旗が降ろされた。館の正面玄関の上部の壁に掲げられていた菊の御紋章も外された。その後には貸家札が貼られた。 この時ほど淋しく孤独感を覚えたことはなかった、と当時を知る人は語る。 やはり同日、ブラジル政府が、国内に在住する枢軸国人を敵性国人と指定、これを取り締まる政令を公布した。 サンパウロ州の場合、州政府公共保安局から、公報で通達されたが、次の事項を禁止していた。 〇自国語にて記載せるあらゆる文書の頒布 〇自国国歌及び歌の歌唱・演奏 〇自国特有の挨拶 〇公の場での自国語の使用 〇公衆に見える場所への自国政府閣僚の肖像の掲揚 〇当局の許可証なしの旅行 〇集会(個人の家庭でのそれ、祝祭の名目のそれも含む) 〇公の場での国際問題に関する議論、意見交換 〇武器の携行、武器・弾薬・爆発物の売買、火薬の製造(許可を得ている者も含む) 〇当局への事前届出無しの転居 〇個人の飛行機の使用 〇当局の許可なしの航空機による旅行 (以上) ブラジルは枢軸国との国交を断っただけで、宣戦布告をしたわけではなかった。 しかるに国交断絶と同じ日に公館閉鎖、敵性国人指定、取締令! この慌ただしさは、どうであろうか? 万事悠長なブラジルにしては、性急過ぎて、これまた不自然だった。 背後で米英が急かせていたと仮定すると、釈然とする。 以後も米英の策動としか思えぬ不自然な出来事が続いた。 国交断絶から数日後の二月二日、サンパウロ市リベルダーデ区内の日本人集中地、通称コンデ街の住民の大半に、突如、立ち退き命令が治安当局から下った。 明確な理由説明はなかった。市の中心部のすぐそばに位置し、近くに官公庁の建物が多いことが、一応の理由だったようだ。つまりスパイ容疑である。しかし証拠があったわけではない。 コンデ街の邦人戸数は三百五十とも四百とも概算されていた。商店、宿泊所、食堂、各種事務所、住宅などが軒を並べていた。笠戸丸以来の長い歳月の間に出来上がった心の拠り所であった。 しかし米英にとっては、自分たちの縄張りと思っているこのブラジル、その大都市サンパウロの都心のすぐ傍に、日本人によって占拠され無数の日本語の看板が掲げられているこの街があること自体、許せなかったのであろう。 さらに立ち退き命令で、この国の日系社会全体に衝撃を与え、萎縮させ、一方でブラジル人に日本人への疑惑と不信感を植えつける…そのための恰好の標的であったろう。 立ち退き命令は、九月になってもう一度出され、二月のそれを免れた住民も、追い払われることになる。 彼らは抗するスベもなく、いずれかへ去って行った。 警官、 学園に踏み込む 当時のサンパウロ市内の邦人は、約千家族と推定されており、リベルダーデ以外ではピニェイロス区に多かった。 そこでは、岸本丘陽が私立の暁星学園を経営していた。同学園はポルトガル語の授業の他に、当局の許可を得て、外国語としての日本語の授業を行っていた。生徒は二四〇人ほどであった。 ここが難に遭った。その顛末が前記の岸本書に記されている。 コンデ街の邦人に立退き命令が下った翌二月三日、中折れ帽子を目深に被った目元の鋭い男が学園の塀の前に立ってジーと中を窺っていた。 数日後、また、この付近では見慣れぬ男が、朝から放課後まで街路の向こう側をブラブラしながら、生徒たちの一挙一動を見つめていた。 二十四日、二台の車が学園の前にピタリと停まるや、六人の屈強な男が現れ、内四人がドカドカと教室の中に踏みこんできた。指揮官らしい男が「刑事である」と名乗り、授業を停止させ、次いで生徒に向かって「所持している本を全部机の上に出せ」と命じた。 出された本の中に、数冊の日本語のそれが混じっていた。指揮官は「これだ、これだ!」と叫び、担当教師を呼んで「逮捕する」と大喝した。 教師が「日本語の授業は、州の学務局の許可を得てやっている」と説明すると、噛み付くよう に、 「日本語を話すことさえ禁じている現状に於いて日本語の授業ができるか!」 と、怒号した。

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