昼下がり、東京都江東区亀戸の路上で起きた無差別殺傷事件。殺人容疑で現行犯逮捕されたのは35歳の男。犯行動機は不明ながらも「死刑になりたい」などと供述している……。これが本書『汽水域』で描かれる事件である。 事件が起きれば捜査が始まるが、同時に取材も始まる。一斉に動き出すのは各メディアの記者たちだ。新聞社やテレビ局における主力はその組織に所属する社員記者。ところが雑誌社ではいささか勝手が違い、フリーランスの記者が出版社から発注を受け、もしくは自発的に現場に繰り出す場合がある。なぜ知っているかといえば、私も週刊誌のフリー記者として取材現場に駆けつけたことがあるからだ。本書の主人公はそんなフリーの事件記者、安田賢太郎、36歳。彼が、付き合いの長い雑誌『週刊実相』のデスクから依頼を受け、前述の事件の取材に取り掛かるところから物語は始まる。 小説ではあれど、安田が難なく事件の真相に辿り着けるわけではない。通行人がネットに投稿した写真から現場を特定。近所の店に聞き込みをして、鉢合わせした同業者と名刺を交換。同業者間における情報のギブアンドテイクにより関係者に繋がるも、取材を土壇場で断られたり、雑誌社だからと敬遠されたり……。フリー記者の場合、記事にできなければ収入はなく、取材経費も出ない。SNSの書き込みから関係者らしきアカウントに目星をつけDMを送るのも最近の取材では定番だ。他社の持たない情報を誰よりも早く得るために東奔西走するさまがリアルすぎていたたまれない。 安田は私生活もパッとしない。妻に三行半(みくだりはん)を突きつけられ、別居している7歳の息子と定期的に面会交流を続けている。それまで家庭にコミットしていなかったゆえか、息子との会話が弾むこともなく、面会の日は終始気まずい空気が流れる。こちらも同じくいたたまれないが、エリート記者でもなければ、自慢のパパでもない「完璧さ皆無」の主人公にはつい共感を覚えてしまう。 安田の存在だけでなく、記事が思わぬ反響を呼ぶ展開も非常にリアルで現代的だ。最近のメディア各社はウェブでも記事を配信する。それがいかに広く読まれるか……つまり「バズる」かどうかに媒体は一喜一憂している。安田の場合は書いた記事が模倣犯を生み、大炎上。SNSでバッシングにさらされ、取材する側からされる側にもなる。 ところで、取材者がその対象を追うとき、単に仕事と割り切るのではなく、なんらかの個人的な感情が伴うことがままある。安田も例に漏れない。ここが本書の読みどころだろう。犯罪を生む要因はなんなのか。事件を起こした容疑者と自分とは何が違うのか――。取材者が事件取材を通して自分自身を見つめ直す私的ノンフィクションのようでもあった。 いわいけいや/1987年生まれ、大阪府出身。2018年「永遠についての証明」で野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。著書に『最後の鑑定人』(日本推理作家協会賞候補)、『完全なる白銀』(山本周五郎賞候補)、『われは熊楠』(直木賞候補)など。 たかはしゆき/1974年生まれ、福岡県出身。裁判傍聴を中心に事件記事を執筆する傍聴ライター。著書に『つけびの村』など。