もはやこの人物を知らない人はいないだろう。ウラジーミル・プーチン。国際ジャーナリストの春名幹男さんは著書『世界を変えたスパイたち ソ連崩壊とプーチン報復の真相』(朝日新書)の中で、プーチンの半生とその当時のロシアの情勢を、克明に描いている。なぜ、プーチンは異例のスピードで首相の座まで上り詰めることができたのか、本書から一部を抜粋・再編集して解説する。 * * * ■祖父はレーニンとスターリンのコック ウラジーミル・プーチンは1952年10月7日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれた。71年後のその日、イスラム組織ハマスはイスラエルに侵攻した。プーチンの誕生日だったからとも言われる。その約3週間後プーチンはモスクワにハマス代表団を迎えた。 プーチンの父は、海軍兵から第二次世界大戦中に、KGBの前身NKVD破壊工作大隊に異動した。2代続けてのスパイだ。祖父はレーニンとスターリンのコックをしていたと伝えられる。レニングラード国立大学法学部では、後のサンクトペテルブルク市長、アナトリー・ソプチャクがプーチンの指導教官だった。 大学卒業後1975年にKGBに入り、第2総局(治安・防諜)から第1総局(対外情報工作)に異動。1985?90年、東ドイツ・ドレスデンに常駐し、東ドイツ情報機関・国家保安省(STASI)当局との連絡官を務めた。1989年のベルリンの壁崩壊後、東西ドイツが統一したため帰国。恩師が市長を務めるサンクトペテルブルク市役所に勤務し、最後は副市長となった。 ■トントン拍子で出世した理由 だが1996年6月の市長選挙で恩師が落選、プーチンは同年8月モスクワに本拠を移した。最初に大統領資産管理部副部長として、旧ソ連およびソ連共産党の資産をロシア政府に移管する仕事をした。翌1997年3月、エリツィン大統領はプーチンを大統領府副長官に任命、さらに翌1998年7月にはFSB長官、とトントン拍子で出世した。FSBはKGBの後継機関であり、プーチンはロシア情報機関のトップに上りつめた形だ。 しかしそれだけではない。1999年8月9日には、わずか1日で3段跳びの急速な昇進を果たした。プーチンにとっては「次期大統領」までの昇進が一気に決まった。第1段階で、第一副首相に任命され、第2段階では「首相代行」に格上げ、3段階目にエリツィンはプーチンを「自分の後継者にする」と発表、プーチンは首相となり翌年の大統領選出馬に同意した。 約1カ月後の9月8日、エリツィンはクリントンとの短い電話会談で、自分の後継者はプーチン首相だと言った。「彼はしっかりした人物で、さまざまな問題を把握している」とほめた。 異例の人事の裏で実は、プーチンが本来の「秘密工作員」としての実力を発揮することになる重大な問題が起きていたのだ。本人自身が「クレムリンの工作員」と意識していたのかもしれない。