10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’95年5月5日号掲載の『ヘッドギアもはずして…保護された53人の子供が語った「オウムの生活」』を紹介する。 地下鉄サリン事件の2日後の’95年3月22日、オウム真理教(以下・オウム)の活動拠点である山梨県・上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)など25カ所で強制捜査が行われた。4月に入ると、林郁夫や新実智光など幹部も次々に逮捕される。4月14日にも全国各地で教団施設の一斉捜索が行われ、上九一色村の「第10サティアン」では53人の子供たちが保護されたのだった(《》内の記述は過去記事より引用。年齢・肩書はすべて当時のもの)。 ◆腕に注射の跡、薬を投与されていた疑いも 《「子供たちは、トイレを流すということや、石鹸、タオルの使い方もわからない。ケースワーカーによると、ペンダントを見て「これなに?」と聞いたり、口紅を引いた唇に、『口が赤い』と不思議がっている」》 山梨県中央児童相談所の矢崎司朗所長は、保護された子供たちの様子をこう語っていた。矢崎所長によると、子供たちは、4月14日に相談所で迎えた初めての夜、『ドラえもん』のビデオを、目を皿のようにして見たり、『人生ゲーム』に興じていたという。翌15日の夜には、肺炎や栄養不良などで入院した10人の子供も退院して皆と合流し、元気に遊んでいたとのことだった。子供たちの話から、「オウムでの生活」も徐々に明らかになってきた。 《外は毒ガスで危険だからと「第10サティアン」から出ることが許されず、食事はオウム食と呼ばれる栄養価の低いものを1日2食だけ。腕に注射の跡があり、薬物を投与されていた疑いもある。 16日、オウム側は、報道されているような事実はないと、施設内で生活している子供4人の記者会見を行ったが、子供たちの口から出てきたのは、「睡眠時間は1日4時間で15時間修行」、「寝るときも同じ服で風呂に入れない」などといった言葉。「毎日楽しい」と答えた子供も、「どこが楽しいの?」と聞かれると答えられなかった》 ‘90年に起こされたオウム施設内で暮らしていた子供たちの人身保護請求裁判でも、施設での子供たちの生活が明らかにされていた。それによれば、6時30分に起床して、7時に儀式、8時から教団の教義の勉強。9時から1時間修行で10時からは呼吸法の時間。小学生は夜の11時、中学生は12時まで修行が続くとのことだった。もちろん学校には通わせてもらえず、普通の勉強は1日に3時間。風呂はなく、4~5日に1度、近くの川から汲んだ水を浴びていた。 子供たちの保護についてオウムの顧問弁護士だったA氏は「所長に対して職権濫用か逮捕監禁で告訴も考えている」として、子供たちを取り返すべく、17日に甲府地裁に人身保護請求を申し立てていた。 ようやくオウムから救いだされた子供たちのその後はどうなったのだろうか。 ◆「刷り込みとして残っている」オウムでの生活 その後、オウムへの警察の捜査はさらに厳しさを増すことになった。1ヵ月後の’95年5月16日の強制捜査で上九一色村「第6サティアン」で麻原彰晃が逮捕されて、オウムは事実上崩壊。子供たちが連れ戻されることはなかった。 保護された4歳から14歳までの53人の子供たちは、外の社会と隔絶された異常な環境で育てられていた。顔色は一様に青白く、児相の職員たちに敵意をむき出しにする子も少なくなかったという。しかし、職員たちと日々一緒にいることで、少しずつ心を開いていったようだ。 子供たちは6月以降、社会復帰のため全国の施設へちりぢりに移送され、最後の子供が山梨県中央児童相談所を去ったのは’95年7月12日のことだった。厚生省はその後の子供たちの状況について、各地の児童相談所に調査票を配ってフォローしていたが、調査は2年で終了。その後の子供たちがどうなったのかは不明だ。 NHK『クローズアップ現代』では、今年3月18日の放送でこの子供たちの中の1人で現在40代になっている女性にインタビューしている。女性は教団の教えと社会のギャップや、基本的な社会のルールが身についていないために苦労したこともあったとして、次のような言葉を語っていた。 「教団の教えを信じているわけではないけど刷り込みとして残っている」 オウムは30年前に「宗教2世」の問題に直面させられた子供たちをも生み出していたのだ。