地下鉄サリン事件の後、教団施設から一時保護された「オウムの子どもたち」が日記に書いた文字…「はやくオウム真理教にかえせ」。宗教に染まった子どもたちはどう変わっていったのか。児童相談所の元職員が、その90日間を証言しました。 ■オウムの子どもたち 90日間の証言 山梨県旧上九一色村にあったオウム真理教の施設「第10サティアン」。ここには、信者の親と一緒に出家した子どもたちも暮らしていました。 当時の子ども 「いま自分がやっている修業は、だいたい15時間とか。睡眠時間は4時間です」 ――どんなテレビを見ている 当時の子ども 「オウムのビデオを見てる。尊師の説法とか」 ――どうして表に出て遊べない 当時の子ども 「毒ガスがいっぱいだから」 “カルト教団の教え”に染まった「宗教2世」。外の社会と隔絶された異常な環境で育てられていました。 1995年3月20日、オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件。 警視庁の音声記録 「口・鼻等から出血、呼吸困難で立ち上がれない状態」 警視庁の音声記録には緊迫したやりとりが残されていました。 警視庁の音声記録 「八丁堀の女性2名、これによっては現在人工呼吸中、救急隊の話によると危ない状況」 警視庁の音声記録 「日比谷線の小伝馬町駅、小伝馬町駅。目が見えないと苦しがっている人がいる」 “目が見えない”、サリン中毒による症状です。 地下鉄サリン事件では14人が死亡し、6000人以上が負傷しました。 事件後の1995年4月14日、警察は教団施設を一斉捜索しました。 4歳から14歳までの53人が甲府市の児童相談所で一時保護されます。 児童相談所の職員だった保坂さん。子どもたちと会ったときの印象を、こう話します。 元県中央児童相談所職員 保坂三雄さん 「かわいそうという感じよりも別世界から来た人。ある種の怖さ、不気味さを感じましたね」 “オウムの子どもたち”との90日間が始まります。 ■オウムの子どもたち 職員に“敵意” 「にっきちょう」と書かれた学習ノート。児童相談所に保護された子どもたちが残した日記です。子どもの1人の記述は、5月15日から始まっていました。 「にっきちょう」より 「テレビや新聞でオウムのことを見た。マスコミや警察はひどいと思った。デッチあげもいいかげんにしろ」(5月15日) 「なにもかくことがない」(5月19日)