今年、約3300億円が残る公的資金返済について、返済の目処を明らかにしたSBI新生銀行。前身の旧日本長期信用銀行(長銀)時代の負の遺産を遂に完済できるのではと話題になったが、その激動の発端は、1998年3月の決算期での粉飾決算容疑で、経営陣3人が逮捕された「長銀事件」だ。なぜ、長銀を不良債権問題に巻き込んだ「真の戦犯」は責任を問われなかったのか?金融界の最前線に立つ元・日銀マンの著者が、自らの見解を交えて事件を詳述する。本稿は、和田哲郎『バブルの後始末――銀行破綻と預金保護』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。 ● 存在意義の薄れた長銀に 吹いたバブルの追い風 長期信用銀行(長信銀)はよくも悪しくも高度成長期を体現する銀行であった。戦後復興の下で資金需要は盛り上がり、産業界を中心に、長期金融を担う金融機関の必要性が叫ばれた。 1952年に長期信用銀行法が制定された。かつて特殊銀行から普通銀行に転換した日本勧業銀行(勧銀)と北海道拓殖銀行(拓銀)は普通銀行にとどまる一方、日本興業銀行(興銀)は長信銀に転換した。また、同年に勧銀と拓銀が日本長期信用銀行(長銀)を設立、旧朝鮮銀行社員が清算で残った財産を元に日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行)を57年に設立した。 しかし、1973年の第1次石油危機を契機として、日本経済が低成長に移行する中、企業の資本市場調達が趨勢的に増加、長信銀制度は歴史的使命を終えていた。 ところが、1980年代後半に至り、バブルという追い風が吹いた。地価は上昇を続け、長信銀もチャンス到来として、関連ノンバンクも動員して、不動産融資を拡大した。長信銀各社はこの時期、行き詰った長信銀制度をどう変え、今後どう生きていくかを真剣に検討すべきであったが、バブルの発生で思考停止した。 長信銀のセーフティネットはまったく未整備であった。これは長信銀制度からすれば当然のことのようにも思われる。長信銀は債券を発行し、長期・固定金利の貸出を行っていた。預金業務も決済業務も取扱いはほとんどなく、言わばノンバンクであった。 債券は、長期の「利付債」と短期の「割引債」があり、利付債は金融機関が保有し、割引債は個人が無記名で保有する形態が多く、資金源を預金に頼る都銀とはかなり異なった。 ● 2000年の預金保険法改正により 金融債は預金保険の保護対象に 金融債は預金保険の対象外であった。銀行の定期預金の預入期間は最長3年と規制されていたほか、普通銀行による普通社債の発行が解禁されたのは長銀、日債銀が破綻した後の1999年10月のことであった。この間、唯一の外国為替専門銀行であった東京銀行は例外的に金融債が発行できたが、三菱銀行との合併後は新規発行が止められた。