14名が銀行で「毒殺」された… 犯人は元「731部隊」か、「謎の大金」を持つ画家か 凶悪犯罪「帝銀事件」の真相とは

1948年、第二次世界大戦終結から3年後の日本は、まだGHQの占領下にあり、戦争の傷跡が社会に色濃く残っていた。社会不安が広がる中で発生した「帝銀事件」は、銀行内で14名が毒殺され現金などが奪われた凶悪犯罪である一方で、冤罪の可能性が示唆されることもあり、戦後日本の混乱を象徴する事件だといえる。改めて、昭和犯罪史に刻まれたこの大量毒殺事件の経過と、いまだ深い闇に包まれている謎について見ていきたい。 ■閉店直後の銀行を訪れた「白衣の男」 1948年1月26日(月曜日)午後3時過ぎ、東京都豊島区長崎にある「帝国銀行(三井住友銀行の前身のひとつ)」の椎名町支店では、閉店後の片付けが粛々と進められていた。そこに、白衣を着て「東京都防疫班」と記された腕章を付けた中年男性が現れた。 男は「厚生省技官」を名乗り、名刺を差し出して「近隣で集団赤痢が発生した。感染者の一人がこの支店に来ている。感染拡大を防ぐためGHQが消毒を行うが、その前に予防薬の服用が必要だ」といった旨を話した。 当時、GHQは日本社会において絶対的な権威を持っており、この説明は十分に信憑性を持つものだった。支店長が不在だったため、支店長代理が対応し、行員や住み込み従業員の家族ら計16名がその場に集められた。 ■14名がバタバタと倒れていく惨劇 白衣の男は「予防薬には2種類あり、必ず順番に服用する必要がある」と説明し、第一薬については「歯のエナメル質を保護するため」として舌を出して飲むように指示し、自分でやり方の手本を見せた。そして、集められた16名分の容器に液体を垂らすと、行員たちはその指示に従って舌を出した上で飲み込んだ。 直後、異常が発生する。第一薬を飲んだ全員が突然喉を押さえ、激しい苦痛を訴え始めたのだ。苦痛を和らげたい一心だったのだろう。16名は耐え難い苦しみから、うがいをしようと洗面所や台所に向かった行員たちだが、そこまでたどり着けずにバタバタと倒れていった。言うまでもなく、男が飲ませたのは毒物だった。 そんな中、女性行員の一人が幾度か意識を失いながらも外へ這い出し、助けを求めたことで、午後4時過ぎに事件の発生が発覚した。警察が到着したとき、犯人は現金約16万円と小切手(額面1万7450円)を奪い逃走していた。被害金額は当時の貨幣価値に換算して1000万円近い額に相当すると推定されている 警官が駆けつけると、室内には多くの人が倒れ、嘔吐物が散乱した状態だった。行員ら16名のうち12名が死亡、残る4名も重体。被害者の中には住み込み従業員一家の子供も含まれていた。 なお、小切手は翌日には現金化されており、警察はその経路を追ったが、犯人の特定には至らなかった。 ■数ヶ月前にも発生していた「未遂の類似事件」 この事件には、見逃せない類似事案が2つ存在する。まず、1947年10月、安田銀行荏原支店に「厚生技官 医学博士 MS」と記された名刺を持つ男が現れ、赤痢発生を理由に行員らに液体を飲ませたという事件が発生している。なお、幸いにも死者は出なかった。 MSという人物は実在していたが、事件当時のアリバイが確認されている。また、名刺自体は本物だった。つまり、MSが誰かに渡した名刺が悪用されたのである。さらに1948年1月、三菱銀行中井支店でも「医学博士 YJ」と名乗る男が現れ、行員らに液体を飲ませようとしたという出来事があった。 ただし、男は不審に思われ追及されるとその場から逃走した。「YJ」という名前は架空だったことが判明している。 警察は「帝銀事件」を含め、これらの事件を同一犯によるものと推測した。舌を出させて毒物を飲ませる手口から、犯人が劇薬の効果を熟知しており、医療関係者である可能性が示唆された。また、16名が次々に苦しみ倒れる惨状の中でも一切動揺せず、現金を奪い去った点から、冷酷で無情な人物と考えられた。 ただし、帝銀事件の犯人が冷静沈着であったのに対し、類似事件の犯人とみられる人物は落ち着きに欠ける行動を取っており、一貫性の欠如が見られた。 ■「731部隊」への捜査は、GHQの命令により中止された 犯行に使用された毒物は青酸化合物であることがわかっている。この毒物を取り扱うには専門知識が必要であり、警察は旧陸軍の陸軍中野学校や関東軍防疫給水部本部(通称「731部隊」)にも捜査を広げた。 しかし、旧陸軍をめぐる捜査は進展せず、その背景にはGHQが関与したとする説も囁かれる。 ■決定的な証拠がないまま行われた画家・平沢貞通の逮捕 帝銀事件の捜査で、毒物以外に重要な糸口となったのが名刺だった。事件当日、支店長代理が受け取った名刺は現場で確認されなかったが、類似事件で使用された「MS」の名刺が手がかりとして浮上した。 実在する医学博士・MSは几帳面な性格で、名刺を渡した相手や日付を詳細に記録しており、警察はその記録を徹底的に調査した。その結果、MSの名刺を受け取った人物の中で、その時点で名刺を所持しておらず、事件当時のアリバイを証明できない画家・平沢貞通(56歳)に疑いが向けられた。 平沢は「名刺はバッグごと盗まれた」と証言し、盗難届も提出していた。しかし、名刺捜査班のI警部補は平沢への疑念を捨てず、強引に接触を試み、記念写真と称して平沢の顔写真を入手するなど執拗に調査を進めた。 平沢の容貌は人相書きとの一致も見られたが、犯人である決定的な証拠は見つからず、捜査本部内では「Iの捜査は行き過ぎではないか」との批判も出た。 それでも、1948年8月21日、平沢は小樽で逮捕された。東京への移送中の平沢は、夏にもかかわらず頭から毛布を被らされ、食事を与えられないなどの人権を無視した扱いを受けたという証言もある。 ■手にペンを突き刺し、壁に血で「無実」と書いた平沢 平沢には毒物に関する知識がなかった。だが、事件直後に大金を所持していたことが疑われた。警察はその金の出所を追及したが、平沢は明確な説明をしなかったため、疑念を深めることとなった。 それでも平沢は一貫して犯行を否認し続け、8月25日にはガラスペンの先端を手に突き刺して自殺未遂を図った。このとき、血で「無実」と書き残したという話も流布されている。 一方、平沢が過去に銀行相手に4件の詐欺事件を起こしたことが明らかになり、本人もこれを自白した。しかし、帝銀事件と直接的に関連する証拠にはならなかった。この件には、狂犬病の予防接種後に精神疾患や記憶障害が見られるようになった影響があったという指摘もある。 ところが9月下旬、平沢は追い詰められた末に、これまでの否認を翻し、犯行を認める供述を始める。この供述をもとに、10月12日、強盗殺人および強盗殺人未遂の容疑で起訴された。 この起訴の根拠となったのは平沢自身の自供のみであり、物的証拠は一切存在しなかった。

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