校内人事選挙問題 学力低迷の病根を見た
産経新聞 2014年5月25日(日)11時20分配信
その小学校教諭は、教育大を卒業して間もなく、休み時間には子供たちと一緒に遊ぶことが好きだった。まだ学生気分が抜け切っていなかったと言ってもよかった。それだけに、授業が理解できていない子供が気になって仕方なかった。
「教え方が悪いのか」
「時間をかければ、わからせることができるのか」
そう考えて始めたのが、わからないと言う子を個別指導する居残り授業である。子供たちも喜んだが、保護者がもっと喜んだ。熱心な先生だと評判になり、子供たちの成績も上がり始めた。
やがて、職員会議で居残り授業が問題にされた。帰宅が遅くなる子供の安全を考えていない、というのである。 「もし、事故があったら、先生はどう責任を取るんですか」
口調こそ穏やかなものの、厳しく追及したのは同じ学年で担任を持つ中堅・ベテラン教諭らだった。彼らが受け持つ子供の保護者から、このクラスでも居残り授業をしてほしいと要望が相次いでいたことは、後日初めて知った。それが嫌での問題視だった。
会議中、校長は一言も意見を言わなかった。教諭への非難が一通り出終わったころ、結論だけを言った。
「では先生、居残り授業はやめてくださいね」
この学校では、いや学校という場所では、子供にまともに学業を授けることはできない。そう見極めて教諭が辞職し、学習塾を創立したのは数年後のことである。塾はほどなく、私立中学受験で定評のある、大阪・北摂地域を代表する有名塾になった。
◆主任制度反対闘争の残滓
すでに故人になった、この塾経営者を取材したのは昭和63年である。それほど古い話を思い出したのは、大阪府内を中心に、校内人事を教員らが選挙などで決める「なれあい人事」の横行がニュースになったからだ。
いまだに時代遅れの「悪行」を続けているのか−それが率直な感想である。
戦後の学校は長らく、鍋ぶた型組織だった。校長、教頭の下にいるのは基本的に教諭のみ。たとえば、キャリア30年のベテランも大学を出たばかりの新任も等しく教諭であり、横の関係として「先生」と呼び合う同僚だった。トップから部長、課長、係長、主任などとピラミッド型を築いている一般組織とは根本的に違う社会を、学校は形成してきたのである。
鍋ぶた型組織に変化を与えたのが昭和51年に導入された主任制度である。「校長の指導と責任の下に生き生きとした教育活動を組織的に展開できるよう、校務を分担する必要な職制を確立する」とした46年の中央教育審議会の答申を受けた制度だったが、日教組をはじめとする教職員団体は激しい反対闘争を展開した。
「学校における管理運営体制の強化を図るもので、上命下服の命令体制を持ち込むものだ」
これが反対理由である。これに対して文部省(現文部科学省)は、主任制度は調和の取れた学校運営を目指し、教育指導の充実を図るものであるとの見解を発表し、主任は管理職ではないとの見解も加えて実施にこぎつけた。提言から5年がかりの大仕事だった。そのうえ組合の意をくむ自治体も多く、最後の沖縄県が導入して全国で主任制度が実施されるまでに、さらに5年がかかった。
今回明るみに出た「なれあい人事」は、こうした歴史の末に実質的に鍋ぶた型組織の体質を残したものである。その観点から、この問題は是非を問わなければならない。
◆怠け者のごまかしを許すな
なぜ学校は「上命下服」ではいけないのか。それは戦前、子供たちを一面的に戦争に駆り立てた軍国教育への反省があるからである。「自由で多彩な考え方を養いたい」。教育記者時代、そう力説する先生たちを、それこそ無数に取材させてもらった。彼らの教育方針を実現させるための方策が、鍋ぶた型組織だった。
その結果、学校はどうなったか。教諭はベテランも新任も同格で、互いに干渉せず、それぞれが自分の信念に従って子供を指導する。校長や教頭はその空気を尊重し、アドバイス程度の指導しかしない。指導力を発揮しようとすれば、民主的ではないとして職員会議で吊るし上げられる。「学力不足を克服しよう」などと校内目標を掲げるなど、到底できない。これほど怠け者の教諭に居心地のよかった組織はあるまい。前述の居残り授業をめぐる職員会議は、特定の学校だけで見られた光景ではないのである。
こうした学校の空気や職員会議が今でも生きていることを、今回のニュースは証明した。これでは、いかに市長や知事、あるいは教育長が旗を振ろうと、全国学力テストでの不成績を子供たちが克服できないのも道理である。学校とは、子供たちの学力を養い、社会性を身につけさせる場所だ。そのための仕事を、すべての教諭は納税者から負託されている。使命感をごまかすようなお手盛りルールは、決して許されるものではない。(安本寿久)