いじめは、なぜ学校で次々に起きるのか?

いじめは、なぜ学校で次々に起きるのか?
WEDGE 2012年8月2日(木)14時8分配信

 大津市の中学2年の男子生徒(当時13歳)が昨年10月に自殺した事件で市の教育委員会と学校の対応の杜撰さと閉鎖性が問題になっている。内輪の人間であるはずの市長からさえ、「もうこんな教委はいらない」と言われる始末だ。

■子どもの安全を守れない教委

 教委と学校の対応のひどさは相当だ。「いじめのSOSを受け止められない学校に、いじめをなくすことなどできない」(産経新聞2012年7月19日)と不信を表明され、これからどのように信頼を取り戻すのか、先はまったく見えてこない。

 学校は生徒の自殺後、全校生徒を対象に調査をしている。

 「教室やトイレで繰り返し殴られていた」「ズボンをずらされていた」「昼食のパンを食べられていた」「ハチの死骸を食べさせられそうになっていた」「成績カードを破られていた」(上掲紙)

 これだけの証言があっても、学校はいじめと自殺には因果関係がないとしていた。

 昨年中に親から3回にわたって相談を受けながら、何の対応もしなかった警察も、今になって傷害事件として学校を捜索した。子どもの死という事態に何かしなくてはならなくなった警察のあわてぶりも相当だ。

 教委と学校は、否定したその後に新しい事実を突き付けられ、対応を迫られている。アンケートで「自殺の練習をさせられていた」と書いた16人もの生徒の回答を「隠した」大津市教委では子どもたちの安全は守れない。

 その後、全国各地で『いじめ事件』の公表が駆け込みのように相次いでいる。大津の事件が明るみにならなかったら公表されることはなかっただろう。学校や教委の隠ぺい体質は大津市だけの問題ではないのである。

■1937年のいじめ「油揚げ事件」

 事件は東京にあった中学(旧制)1年生のクラスで起きた。

 * * *

 堀という生徒が、「あのね、浦川のこと、この頃、『油揚げ」っていうんだってさ。弁当のおかずが、毎日、きまって油揚げなんだって。おまけに煮てない生の油揚げなんだって」「なんでも、今学期になってから、油揚げでなかった日は、四日ぐらいしかないってさ」

 それを聞いたコぺル君は不愉快な思いがした。浦川の隣に座っている山口が毎日、弁当のおかずを盗み見て、仲間に報告していたのだ。

 仲間の生徒たちは面白がって、さっそくそのあだ名を広めていった。浦川は、筆記用具を隠されたり、クラスの生徒から馬鹿にされたりすることも多かった。

 理由は、彼の恰好がおかしいことや勉強ができないことの他にあった。彼の家は貧乏な豆腐屋だった。同級の生徒は豊かなうちが多く、浦川の貧しさが仲間外れといたずらの対象になっていた。浦川が何をしても怒らないと考え始めた山口の仲間たちは、徐々にいたずらをエスカレートさせていく。

 事件は秋のある日に起きた。

 11月のクラス会が開かれることになって、出演者を選挙した際に、だれかが「電信」を回してきた。授業中にでも生徒が教師に気づかれないようにそっと送られていく通信のことで、そこには「アブラゲに演説させろ」と書かれていた。山口たちが書いたものだ。

 そのうち、山口は文面を読み上げた後、「アブラゲって誰のことだい」と浦川に尋ねた。

 山口の仲間はどっと笑った。

 浦川の顔色が変わった。「自分の弁当!アブラゲとは自分のことなんだ」

 「山口!卑怯だぞ。」 

 コぺル君の友だちの北見が山口の頬を平手で打った。それから、取っ組み合いが始まった。北見が山口を仰向けに押さえつけた時、浦川が北見に抱きついた。

 「北見君、いいんだよ、そんなにしないでいいんだよ」と、山口を殴ろうとする北見を止めた。
その時に入ってきた、担任の教師は北見に誰が先に手を出したのか、尋ねた。北見は自分だと答えたが、その理由は話そうとしなかった。

 担任の教師は、北見と山口とクラス委員の生徒の3人を残して後の生徒はグランドに出した。教師から山口は厳しく叱られていた。コぺル君は浦川のこんな明るい顔を見たのは初めてだった。

 * * *

 この話は、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)の2章「勇ましき友」に紹介されている話である。

 2011年のいじめと1937年のいじめ、時代は変わっても共通のものがいくつかある。違いは、1937年にはいた、いじめられている子を守ろうとする「正義派」の子どもたちが2011年には見えないことだ。

■「力のアンバランス」がいじめを生む

 いじめの定義はいくつかあるが、「ある生徒が、繰り返し、長期にわたって、一人または複数の生徒による拒否的行動にさらされている場合、その生徒はいじめられている」というノルウェーのオルヴェウスの定義がよく使われている。 (文科省は「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と少し緩やかな定義を使っている)

 「拒否的行動」とは「ある生徒が、他の生徒に意図的に攻撃を加えたり、加えようとしたり、怪我をさせたり、不安を与えたりすること」とする。(森田洋司『いじめとは何か』中公新書)

 2011年のいじめと1937年のいじめに共通するのは、「力のアンバランス」である。

 つまり、自分より弱いものに対する反復・継続した攻撃・排除であって、しかも攻撃されたものが苦痛を感じるものでなければならない。

 いじめとは、これほど卑劣なものだ。いつの時代にも、どこにでもある、と言うような言葉で済ませられるようなものではないのである。

 この世界にいじめは横行する。セクシャルハラスメント、職場でのいじめ・パワーハラスメント、アカデミックハラスメント、モラルハラスメント、配偶者や恋人・親など家族による暴力<ドメスティックバイオレンス>)

 大人の世界では様々な種類があるが、どれも質的には子どもの世界のものと同じである。

 このような「いじめ」にあった被害者がどのような人生を送るか、またはどのようにして自殺に追い込まれたか、ていねいな検証が行われない限り、繰り返し発生する。

■異質な存在はターゲットにされやすい

 大津のいじめ自殺事件では、様々な深刻な事実が明らかになっている。

 先の定義から考えると、(1)自分より弱いものに対する (2)反復・継続した攻撃・排除であって、しかも攻撃されたものが (3)苦痛を感じるものでなければならない。

 自分より弱い者を選び、もしくは徒党を組むことによって多数で、繰り返し攻撃を加える。上記の攻撃の型を一つ選んだだけでも十分にいじめとなる。しかも、大津の事件では自殺の練習をさせられていた。

 1937年のいじめはどうか。舞台は東京、山の手の(旧制)中学である。生徒はほとんどが官僚、大企業の役員、医師、弁護士などエリート層の息子たちである。ここでいじめのターゲットになっていたのが、この地域の中学では希な豆腐屋の息子だった。父親は金に困って金策に出ている。弁当は家業のものですます。この浦川は家業の手伝いでしょっちゅう学校を休んでいる。この地域の中学では数少ない貧困層である。いわば異質の存在である。異質の存在は、排除や攻撃、差別の対象となりやすい。いじめは少数者がターゲットになる。

■日本の学校の仕組みに原因が

 なぜ、学校でこれほど頻繁にいじめが起きるのか

 それは学校が他の社会と比べてもいじめが起きやすい場所だからである。子どもたちのストレスを作り続ける日本の学校の仕組みにいじめの原因がある。

 (1)クラスという小さな箱の中に多数の子どもが詰め込まれているという学校の作り方 (2)同じ内容のカリキュラムを一斉に学ぶという管理と競争のシステム (3)1年間(中には数年に及ぶ)という長期にわたって子どもたちが同じ「密で濃い」閉ざされた空間の中で過ごさざるを得ない (4)日本の学校の集団優先の全員一致主義が子どもの意識の中にも大きく影響している

 日本の学校の構造は固定されたクラスや座席からつくられ、いじめから逃れられないようにできている。1937年のいじめでも、「いじめられっ子」の浦川の席の後ろは「いじめっ子」の山口で、周囲をそのグループに取り囲まれていた。 

 子どもたちは、同じクラスで、規則や教師のまなざしの中で管理と競争という過酷な環境の中で1年間(中高一貫では6年。中には小中高12年も一緒と言う学校もあるが)を過ごす。

 学校(教室)空間にはたくさんの約束事がある。

 学校は子どもたちにとって、友だちをつくる場である。しかし、クラスのメンバーを決めるのは子どもたち自身ではない。決められたクラスのメンバーには相性が悪かったり、なかには「いじめっ子」もいよう。そんな中でも、子どもたちは、友だちをつくらなければならない。「いじめっ子」であっても、何らの関係性をもたないという選択肢は子どもたちにはない。

 しかも、学校には、体育祭(運動会)、遠足、修学旅行など多くの行事がある。その都度、「班」が作られる。どこでも教師ははみ出しっ子をどこに入れるか、この班づくりで悩まされる。どこにも入れない子がいじめの対象になっていく。

 教師が、「Aさんをこの班に入れてあげて」と頼むと、子どもたちは「入っていいよ」と言うのだが、必ず「うざい!」「面倒くさいなぁ!」というまなざしが返ってくる。

 軍隊(警察)などタテの階級制度を中心に成り立っている組織でいじめが多いのは一般的に知られた事実だが、部活動やサークルなど、より強固な人間の関係性を保つ必要がある場ではいじめが起きやすい。さらに厳しい競争にさらされていればいるほどいじめも起きやすい。いじめはある意味でストレスの解消に使われている場合が多いからである。

 部活動に熱心な教師の世界でもよくみられる。若い教師を先輩教師が「パシリ」として使うのである。最近は中学生の中でも下級生が上級生を「先輩」と呼び、「パシリ」に使われている。いじめと変わらないが教師世界でもよくみられる風景だ。

■「ノリ」が学校と子どもを支配する

 「ノリ」から外れる恐怖感は子ども世界では強い。「ノリ」が子どもを死に追いやった事件も少なくない。例えば、1986年、東京都の中学2年生鹿川裕史君が死んだ「葬式ごっこ」のいじめでは、担任の教師さえもクラスでつくられた色紙の寄せ書きに名前を書き、いじめに加担していた。

 こういう「ノリ」は日本社会ではよくみられる集団行動主義の一つだ。いつ、仲間から外されてしまうかもしれない。そうならないために気遣いをしながら生きる子どもや若者たちは少なくない。

 友だちとの間でスムーズな関係性を維持するために若者たちがつくったのが「キャラ」づくりである。集団内で、一人ひとりが演じる役割を決め、衝突を避ける。

 「切れキャラ」「いじられキャラ」などと役柄を決め、集団を盛り上げる。「いじられキャラ」とされるとその集団では延々と演じ続けなければならない。ある意味、いじめ対象として公認することだが、多くの人々はその残酷性に気づいていない。それができないとKY(空気読めない)と集団から排除されていくことになる。子どもや若者の世界では、この場ではどのような役割を演じ、発言をしていけばいいのか、緊張の中で生きざるを得なくなっているのである。

■なぜ、学校はいじめを隠すのか

 いじめ事件が起きると過去、学校がとった方針は二つ。一つは、この事件は「子ども同士のケンカなどのトラブル」とすること。他の一つは、「親などの家庭が原因」とすることである。学校や教師に原因があることになると、教委や校長ら誰かが責任をとらなければならなくなり、履歴に傷がつくことになる。賠償責任を負うことにもなる。そうしないためには、原因をできるだけ明らかにしないように対策をとる必要がある。だから隠すのである。

 しかし、背後には、いじめられるのは本人の性格の弱さにも問題がある、親の育て方や家庭に問題があるという俗説がまだまだ根強く、学校と地域がいじめた多数の子どもをかばおうという意識が根強いという風潮がある。

■問われる教師像

 今回の大津のいじめ事件では、自殺した中学生がいじめられている現場に教師たちは随分遭遇している。女子生徒からいじめられているという報告も受け、担任の教師は、生徒がプロレス技をかけられ、半泣きになっている生徒を見ている。父親から金遣いが荒くなったのはなぜか、という相談もされている。しかも「自殺練習」さえさせられていた。

 ところが教師や学校(教委)は生徒や親からのいじめのSOSに気づかなかったという。

 学校とは子どもたちにとってどのような場でなければならないのだろうか。学習指導、生活指導など子どもたちの成長のために必要な援助や指導が行われなければならないのは当然だが、まず第一に子どもの安全が保障されている場でなければならない。教師の未熟さと教員集団の子どもたちへの見守り体制が多くの学校で不備であることがこのような事件が頻発している原因の一つになっているのではないか。ここでは学校教育の役割や教師とはどのような職かが問われているのである。
 日本全国で多くのいじめ事件がその後、裁判になっている。自殺した子どもの親たちの孤立した闘いが続いている。

■いじめを減らすために

 学校とは子どもの居場所であるが、それは安全で安心できる居場所でなければならない。本来的に日本の学校は、そのシステム故にいじめが起きることは避けられない。であるならば、子どもの安全を守る教師たちの見守り体制が重要になっている。

 しかし、今全国から、学校・教委や教師が問われているのはその能力への不信だけではなく、隠ぺい体質である。

 学校の信頼回復の方策はまず、学校の運営にあたって、地域、保護者と学校が連携をつくることだ。今回のような地域社会を巻き込む問題が発生したら、今までのような教師だけの判断ではなく、地域住民、保護者、学校の協議機関での話し合いで学校の取り組みや認識のずれを埋める努力が必要になっているのではないか。

 いじめを一掃することは難しい。しかし、いじめを減らし、被害者を少なくすることは可能である。

 いじめ対策には次のような対策が必要だ。一番大切なことは、もっと学校を楽しい場にすることだ。子どものストレスを減らす努力をしよう。競争と管理から子どもと教師を解放することが必要だ。次に、地域や保護者と協同して学校づくりをしよう。学校づくりに子どもたちの意見をもっと聞こう。民主主義的な学校運営をすることだ。多くの外部の声を入れ、開放的な学校づくりが必要である。

 事件が起きる度に、第三者機関をつくるという愚はおわりにしたい。

(参考文献)
『いじめとは何か』森田洋司 中公新書
『いじめの構造』内藤朝雄 講談社現代新書
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 岩波文庫
『教育の論点』久富義之他 旬報社
『いじめ自殺』鎌田慧 岩波現代文庫
『いじめの直し方』内藤朝雄 荻上チキ 朝日新聞出版

著者:青砥 恭(NPO法人 さいたまユースサポートネット代表理事)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする