■米国と結んだエリート層の支配 フィリピンでは、2022年に大統領に就いたフェルディナント・マルコスJr.(通称ボンボン)と、副大統領のサラ・ドゥテルテの対立が深まっています。 ボンボンはかつての独裁者フェルディナント・マルコス・シニアの息子。サラは前大統領ロドリゴ・ドゥテルテの長女。北部ルソン島が基盤のマルコス家と、南部ミンダナオ島が基盤のドゥテルテ家は、フィリピン政界の有力家で、ライバル関係にあります。 マルコス家はフェルディナント・マルコス・シニアの時代に栄華を極めますが、1986年の「ピープルパワー革命」によって権力の座から追放されていました。ボンボンは州議員から政治キャリアをスタートさせ、とうとう2022年の大統領選挙では、サラと「大統領・副大統領」タッグを組んで選挙戦に勝利しました。マルコス家は36年ぶりに政権の座にカムバックしたわけです。 しかし政権運営をめぐって両者の対立が深まり、サラがボンボンを公然と批判し、「暗殺」にまで言及し波紋を広げました。その一方で、ボンボンはサラの公金濫用や収賄の疑いで弾劾訴追に追い込み、父ドゥテルテに対しても、執権時の「超法規的殺人」を問題視する国際刑事裁判所(ICPO)の求めに応じ、逮捕状を執行しました。ドゥテルテはオランダ・ハーグに送られ、サラや支持者は反発を強めています。 なぜフィリピンでは「家同士の争い」という、見ようによってはまるで中世のような状態なのでしょうか。歴史的な経緯を追っていきましょう。 ■米国と結んだエリート層の支配 フィリピンは1898年までスペインの植民地で、1946年までは米国の自治領(1916年まで植民地)でした。様々な独立運動家が現れて、スペインや米国に対する独立闘争を繰り広げたのですが、強力なリーダーだったのが地方のエリート層、中でも「大土地所有者」が有力でした。 フィリピンの大土地所有制は「アシエンダ」といい、スペイン統治時代のプランテーション農園に起源があります。大土地所有者は地域の名士となり、小作人や農業労働者に恩恵を与える一方で、彼らに自分や一族への忠誠心を持たせる「クライエンテリズム(親分・子分関係)」を根付かせました。独立機運が高まり、スペインや米国に対して武器をとって戦おうとした時、「親分」である大土地所有者が決起したほうが、より多くの人を兵士として動員できたのです。 スペイン、米国からの独立を目指す「フィリピン革命」は、戦いを主導したエリート層が資産と地位の保証の代わりに米国と妥協したことで中断されてしまいました。米国は選挙制度を導入してエリート層に権力の一部を与えて懐柔し、彼らが政治エリートにもなって公職を独占するようになりました。 アジア・太平洋戦争が勃発し、米国の代わりに日本軍が侵入してくると、エリート層は自分たちの権益を守るため、農民たちに抗日闘争を呼びかけ、ゲリラ戦を展開しました。こうしてフィリピンは抗日ゲリラが日本軍を苦しめ、解放戦争に貢献した人物が尊敬を集めました。マルコス・シニアも抗日ゲリラ闘争で活躍したと「公式には」言われています。 ■「闇堕ち」したマルコス・シニア 1946年に米国からの独立を果たすと、弁護士や教師、軍・警察などの中から威信を高めて政治的に台頭する新興エリートが現れました。この時台頭したのが、マルコス家やドゥテルテ家です。国会議員はこの新興エリートと伝統的エリートにより占められ、独立後も米国の強い圧力を受けました。しかし自由党と国民党の2大政党制によって争われ、選挙を経た議員が上院下院を構成する、他のアジア諸国に比べると進んだ民主主義がフィリピンでは実現していました。 そんな中で1965年に大統領に就いたのが、ボンボンの父であるフェルディナント・マルコス・シニアです。大統領の一期目は、マルコス・シニアは国土開発を推進して道路を建設し、高収穫米を普及させ主食のコメの100%自給を達成するなど、国民の高い支持を集めました。マルコス・シニアは、エリートによる寡頭体制が政治腐敗を生み経済発展を阻害しているとして、自らのもとに権力を集めました。するとマルコス・シニアのもとには、彼の配下につくことで利益を得ようとする集団が集まってきて、「お仲間」による利益集団が形成されるようになっていきます。 マルコスは二期8年の大統領の任期を延長することを目論み、議会と政党を解散して憲法を停止し、大統領支持の翼賛政党一党による政治体制を作り上げました。1973年の総選挙は停止され、マルコス独裁体制が出現しました。 この独裁体制に反対したのが、ルソン島中部の地主出身の上院議員ニノイ・アキノです。カリスマ的な人気を誇ったアキノはマルコス批判を繰り返し、警察に逮捕され海外に追放されます。1983年8月、経済不振で国民の不満が高まっていたタイミングで、アキノはフィリピンへの帰国を決断します。ところが彼はマニラ国際空港で軍による銃撃を受け殺害されました。 アキノを支持する人々は、1986年の大統領選挙に故ニノイの妻コラソン・アキノを擁立しました。幅広い支持を得たコラソン・アキノは圧勝したものの、選挙管理委員会はマルコスの勝利を宣言したため、人々は街頭に出て抗議活動が始まりました。軍の一部も群衆に同調してマルコスに反旗を翻したため、マルコスは打つ手がなくなり、米国に亡命しました。 後編に続く