日本人は「秩序を重んじる国民」とされる。横断歩道では信号を律儀に待ち、行列でも割り込まない。しかし、企業ではコンプライアンス違反がなくならい。その原因はどこにあるのか。脳科学者の茂木健一郎さんと、独立研究者の山口周さんの対談をお送りする――。 ※本稿は、茂木健一郎・山口周『教養としての日本改造論』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。 ■日本人にとって、大切なのは「世間」であって「社会」ではない 【茂木】僕は、「世間」というのは、実はあまり変わっていない気がするんです。日本人にとって一番大切なのは「世間」であって、「社会」ではない。「世間様に顔向けができない」みたいな表現もありますよね。芸能人のスキャンダルや失言なんかがあると、「世間様を騒がせて」といった風潮のなか、一方的なバッシングが一斉に起こるでしょう。そうした日本の「世間原理主義」みたいなのは、江戸時代から変わっていない気がしています。 【山口】「社会」という言葉は、どうやら西周(にしあまね)がつくった言葉のようですね。彼は江戸時代に漢学を学んだあと蘭学を学び、大政奉還の直前に、革命で榎本武揚らとオランダに留学しました。そこで西欧社会の邦楽や哲学、経済学や国際法なんかを学んで帰国しました。 そんな彼や福沢諭吉らが参加していた学識者の集まり「明六社」のメンバーは「society」の単語を日本語に訳すとき、相当苦労したようです。「society」とは、独立した「個人(individual)」が集まってできるものだと知った。しかも、その「個人」は同調圧力に従う人々のことじゃない。「一人一人異なる思想」や、「それぞれ独自の意見を持つ存在」、そうした「個人」が集まってできるのが「society」だという。 「これは『世間』という言葉と、似て非なるものだが、まったく対立する概念だと思ったようですね。このことは、福沢諭吉も『学問のすすめ』の中で、「世間」と「社会」とを対立する意味として説明しています。 【茂木】彼が100年前に悩んだテーマが、いまも続いていると(笑)。 ■ハンナ・アーレント的なパブリックの概念がない 【山口】ハンナ・アーレントは、「プライベート」と「パブリック」の概念を分けました。僕らが個人的に行う労働や余暇活動は「プライベート」の行為だけど、個人を超えた社会のために行う社会活動は「パブリック」の行為。その観点で見ると、日本人で、ハンナ・アーレント的なパブリックの「活動」を行っている人は非常に限られてきますね。 【茂木】日本に「プラットフォームビジネス」が育たない理由も、案外ここらへんに隠れているかもしれないね。つまり「プラットフォームビジネス」を起こすには、「社会」の視点が絶対的に欠かせないんですよ。「みなで世の中を変えようぜ!」というフラッグのために、世界中から企業や人々が集い、ワイワイ盛り上がるためには、「個人的な課題」や「消費者の目線」だけでは不十分で、「社会を変える課題解決」といった大きな目標が必要です。「プライベート」がどれだけ集まろうと、そこには「世間」しか生まれない。プライベートな人間が100人集まっても、「社会」は生まれないということです。 だから、いくら優秀な「プライベート(個人)」が集まっても、彼らの目線の先に「世間」しかなければ、プラットフォームビジネスは生まれない。世間的に「マーケットで何十万台売れた」「年商いくらいった」「株価がどれだけ上がった」みたいな“成功”は生まれても、「プラットフォームビジネス」は、そういうもんじゃありません。