「父ちゃんの人生はなんやったんや」 日野町事件、執念で死後再審へ

父ちゃん、勝ち取ったよと報告したい――。「日野町事件」で強盗殺人罪に問われて無期懲役が確定し、服役中に病死した阪原弘(ひろむ)さんの第2次再審請求審で、再審開始を認めた最高裁決定が25日、遺族の元に届いた。逮捕からおよそ38年。阪原さんの遺志を継いだ遺族の執念が、死刑や無期懲役事件としては戦後初めてとなる「死後再審」をたぐり寄せた。 25日午前、東京都内。再審制度改正を求める集会に参加していた阪原さんの長男の弘次さん(64)は、会場で検察側の特別抗告を棄却した最高裁決定を知らされた。 「うれしくて涙が出ました。お墓参りをして『父ちゃんやったね、再審の裁判が始まるよ』とすぐにでも伝えたい」。集会後、弘次さんは母親に電話し、「よかったなあ。もうちょっと頑張ろうな」と声を掛けた。遺族の誰もが、この瞬間を待ちわびていた。 ◇初めて見た父の涙 新年を目前に控えた1984年12月末、滋賀県日野町の酒店経営の女性が行方不明になった。年が明け、日野町内の草むらで女性の遺体が見つかった。女性が所有する金庫も盗まれ、現金が奪われていた。 それから約3年後、酒店の常連客だった阪原さんは滋賀県警による任意の取り調べを受けた。弘次さんは帰宅した父の様子を鮮明に覚えている。 「父ちゃん、(警察に)殴られても蹴られても耐えたんやけど、『娘の嫁ぎ先に行ってガタガタにしたろか』と脅されて、『やった』と言ってしまったんや」。父は家族の前で大粒の涙を流し、続けた。「お前らだけでも信用してくれ」 弘次さんは父が涙するのをこの時、初めて見た。「あの明るい父が……。無罪だ」と思ったという。阪原さんは翌日、逮捕された。 阪原さんは公判で無実を訴え、弘次さんも「絶対帰すからな」と励ました。しかし、1審・大津地裁は95年6月、阪原さんに無期懲役判決を言い渡し、2000年に最高裁で確定した。 当時、体調を崩していた阪原さんは収監までの間に1日だけ滋賀県彦根市にある弘次さんの自宅にやってきた。弘次さんは日本酒を勧めたが、父は神妙な面持ちでおちょこを見つめ、「やめておく」と断ったという。弘次さんには、父が冤罪(えんざい)と闘うことを心に決めていたようにみえた。 01年11月、阪原さんは大津地裁に再審を請求した。誤判を訴えて奮闘したものの、体調は徐々に悪化。11年3月、道半ばで息を引き取った。75歳だった。 阪原さんの死後、家族の元に、刑務所から遺品が入った二つの段ボール箱が届いた。箱から出てきた国語辞典には、「殺人」や「強盗」の文字の脇に赤や黒のボールペンで線が引かれていた。 「たった2箱。父ちゃんの人生はなんやったんや」。こみ上げてくる悔しさと怒り。それを原動力に弘次さんら遺族は第2次となる再審請求審を闘ってきた。 弘次さんは23日にも大阪市で開かれた再審に関するシンポジウムに出席し、「近いうちに必ず再審が始まる。必ず無罪判決を勝ち取れる」と訴えたばかりだった。その翌日、最高裁は再審開始を認める決定を出した。 決定を受け取った弘次さんは25日夕、大阪市内で記者会見し、「我々家族は一丸となって父を刑務所から救い出したい、昔の元の幸せな生活を送りたいという思いでやってきた。(早期に再審無罪とされていれば)父は生きて、家族に囲まれ、泣いて喜んでいたんやろうな」と振り返った。 第2次再審請求審で、大津地裁が再審開始決定を出したのは18年。しかし、検察側が不服を申し立て、8年近い月日が流れた。弘次さんは「本当に長い時間がかかった。かかりすぎだ」と漏らした。 同席した弁護団の石側亮太弁護士は「事件の捜査がいかにずさんで、でたらめであったか。確定審の判決がいかに有罪ありきの非論理的なもので、いかに不正義だったか。再審公判で明らかにしていく」と決意を示した。 再審公判は大津地裁で開かれる。無罪が言い渡される公算が大きい。【菊池真由、岩崎歩、巽賢司、飯塚りりん】

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