「りんご畑で自殺未遂」「悲しくて悔しくて」横浜ストーカー殺人事件の遺族が語る“30年間の悔しさ”

ストーカーの被害者が警察に相談していたにもかかわらず、殺人に発展するケースが、幾度も繰り返されている。今から30年前の1995年10月、横浜市で起きた殺人事件もそうだ。大学3年生だった山内陵子さん(当時21)は、同じ大学の男子学生に命を奪われた。 陵子さんは地元・青森県弘前市を出て、神奈川県横浜市の大学に通っていた。母親の久子さんが、当時を思い起こす。「他人によって大切な家族の命が奪われるということは、こんなにも悲しくて悔しくて。そして一生続くということを今も経験している」「私(看護の)大学の教員をやっていたが、電話が来て『弘前警察署です。娘さんが部屋で倒れている』と表現された。私は看護の仕事をしていたので『具合が悪くて倒れる』と捉えて、どうしたのだろうと思った。神奈川の警察に着いて、初めて『部屋で男子学生に殺された』と言われて、暗い廊下を渡って安置室へ連れて行ってもらった。『違って欲しい』ということを廊下で考えながら歩いていたが、やはり私たちの娘で、大声を上げて泣いてしまった」。 20時ごろに帰宅した陵子さんは、部屋に無断で侵入し待ち伏せしていた男子学生に殺害された。包丁で刺された傷は全身に17カ所で、死因は失血死だった。犯人は同じ大学の同級生だったが、会話をしたことはなく、一方的にストーカー行為をされていた。 久子さんは「『大学生活どう?』と聞くと、『気持ち悪い人がいる』が第一声。まさか恐ろしい、怖いといった意味ではなく、『服装とかが気持ち悪い』って私が取ってしまった」と語る。陵子さんは友人に、「部屋の外に誰か立っている」と相談していたという。「(娘が)『アルバイトでもらったお金で留守電を買った』と言い、『それはいいわね』『お母さんも留守電入れられて』と、便利だということで喜んだが、実は無言電話がものすごく多かったようだ。娘は私たちに心配をかけまいとして言わなかったが、お友達には話していたようだ」。 事件発生の4カ月前に書かれた陵子さんの日記には「今日は警察に行ってきた。バイトは遅れたけど行ってよかった。少し落ち着いた気がする」と記されていた。「その時は、事件も何も、ことが起きてなかった。(警察は)『何かあったら来てください』の一言で終わった。『パトロールしてみるね』とか行動を起こしていただいたら違ったと思う」(久子さん)。 男は殺害後、大学の名簿を見て、陵子さんの実家周辺にも現れた。「りんご畑に来て、自殺を図って、近くの人に助けられて、自殺未遂に終わった。そして弘前大学に入院した。私も弘前大学に勤めていて、『ここに私の大切な娘を殺した犯人が入院している』『いまその犯人は命を助けられている』と思うと、とても複雑な気持ちだった」という。 男に下された判決は懲役14年で、2010年に出所した。陵子さんが被害にあった4年後の1999年には、埼玉県桶川市で元交際相手らによるストーカーの末に、女子大生が殺害される事件も起き、翌年ストーカー規制法が施行された。 2012年には神奈川県逗子市で、当時33歳の女性が元交際相手の男に殺害された。嫌がらせメールなどの脅迫容疑で、男は逮捕されたが、警察官が逮捕状執行の際に読み上げた情報から、被害者の住まいや結婚後の名字を知り、犯行に及んだ。 2023年には福岡市の博多駅前の路上で、女性(当時38)が元交際相手の男に刃物で殺害された。男にはストーカー規制法に基づく、つきまとい行為などの禁止命令が出されていたが、守ることはできなかった。 久子さんは「いろいろな同じような事件が起きると、つらい気持ちが一瞬にしてよみがえってくる。これはどのご家族も同じではないか。警察というのは、犯人を捕まえる大きな仕事と同時に、事件を起こさない、事件を予防していくことも大きな役割にあると思う。一つずつ真剣に捉えていっていただきたい」と願う。 食卓のテーブルを見つめ、いつも陵子さんが座っていた席を指さす久子さん。「高校時代の17時〜18時に帰ってくるのがすごく印象に残っていたので、その時間になると『もう帰ってくるのではないか』。その事が、また悲しさを誘ってしまう」。 また家族写真を見ながら、「夫の誕生日にケーキを買って、娘がプレゼントして。みんなでセルフタイマーで撮った」と振り返りつつ、これが家族そろった最後の写真になったと説明する。 陵子さんは両親を尊敬していた。「夫婦ともに公務員だったため、お友達から聞くと『都庁に入りたい』と大きな夢を持っていたようだ。都庁がテレビに出ると『もしかすれば、ここで今ごろ勤めていたかもしれないな』と思って、涙することもある」。 「電車に乗ったとき、若くきれいに化粧した女性が乗ってきた。『こういう風に娘もお仕事に行っているのかな』と思うと、若い女性を見ただけで胸がいっぱいで、その人たちを見て泣いたりしたことがあって。変なおばさんって思ったかなと思いながら…」 この事件当時、刑事部に在籍していた元神奈川県警捜査1課長の鳴海達之氏は「大変申し訳ないが、この時代の警察は縦割りになっていて、刑事部は刑事部、生活安全部は生活安全部という風に、ほかの部がどんな仕事をしているのか、ほとんど知らない状況だった」として「こういったストーカーの扱いがあった時も、生活安全部が主管で対応している。その先にこのような危険があって、ということを刑事部は知る由もなかった。本当に連携の悪さしかなかった」と振り返った。 (『ABEMA的ニュースショー』より)

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