ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(222)

午後三時頃だった。その草の中から突如、銃声が響き、熱いモノが福島をかすめて走った。馬が驚いて暴走、福島はそのまま稗田家へ走り、異変を知らせた。 息子たちが馬で現場に駆けつけると、道の中央の砂地に、鶴吉は倒れて死んでいた。弾は一発が右首筋から左耳の後ろに抜けており、もう一発が、右こみかめにトドメを刺すように撃ち込まれていた。 現場は道の曲がり角で、草の内部を折り敷き、数人が入れる場所をつくり、覗き穴を二つ作ってあった。下には煙草の吸殻が多数落ちていた。 狙撃者、不明。 この事件に関しては、鶴吉の次男長之(たてゆき)が二〇一〇年現在、スザノに健在であることが判り、筆者は訪問して話を聞いた。八十歳を幾つか超していた。事件が起きた時は二十歳位だったことになる。 鶴吉が狙撃された原因について、長之はこう語る。 「戦時中、ウチはポルトガル語の新聞をとっており、日本の戦況に関する記事を読んでいて、終戦時に敗戦を認識した。 事件が起こる前、父は臣道連盟の集りに出席したが、帰ってきて『ああいう団体には入れない』と言っていた。以後は戦争の勝敗問題では中立だった。 それで向こうから、スパイを働いたと疑われ、撃たれたのではないか。それと戦時中、ウチは(養蚕用の)桑の苗も販売していた。国賊と見做されていたかもしれない」 同じ栄拓植民地にいた鳴海忠夫(前出)は二〇一〇年、筆者に、「鶴吉さんの事件は、戦争の勝敗問題には関係なかったと思う」と話している。 また、 「狙われたのは、敗戦派だった福島さんで、稗田さんは、その巻き添えになった。皆、そう言っていた」 という声もある。 当時、近くに住んでいたという人の筆者への話である。 オズヴァルド・クルース暴動 地方に於ける襲撃事件が続く中、派生的に、異様な暴動が発生した。 それは七月末から八月初めにオズヴァルド・クルースで起きた。 この暴動は、数千の住民が暴徒と化して日系人を襲い続け、一人が殺され、五十人が重軽傷を負った━━ということになっている。 この町では少し前、前記の爆破・放火事件が起き、住民が、 「シンドウ・レンメイのテロが、ここでも始まった」 と神経を尖らせていた。 そうした中、七月三十日の夜、町のバールで、日系と非日系の運転手二人が口論、乱闘となり組み敷かれた日系が相手を刃物で刺し殺した。 二人はその日、仕事中に狭い道で、貨物自動車同士で行き合い、道を譲れ、譲らないでひと悶着起こしていた。夕刻、仕事を終えた後、またバールでバッタリ出会い、争いを蒸し返した。 その口論中、非日系が、 「ジャポネースは敗戦を弁えず妄動している」 と揶揄し始めた。 これに日系の方がカッとなって反論、結局、命のやりとりなってしまった。 事件はたちまち町中に知れ渡り、大騒ぎとなった。 その日系の運転手は間もなく警官に逮捕されたが、群衆が署に押し寄せ、リンチを叫んだ。 これは署長の説得で、夜中過ぎの三十一日の午前二時頃、鎮静した。 が、夜が明け、八時頃、町の別のバールで客(非日系)が、昨夕の事件を話題にして興奮していた。 すると日系の店主が、 「ブラジル人の三人や五人がなんだ。俺は臣道連盟だ。人殺しが恐ろしくてどうする」 とタンカを切った。 これが、彼らを怒らせた。 一方、別の所で地免三一という連盟員が、住民たち(非日系)と昨夜のことを話している内、 「間もなく俺たちがお前らをマンダする時が来る」 と放言した。 これに憤激した数人が襲い掛かった。地免は重傷を負った。 この二件が火をつけた形となり、多数の住民が暴徒化、口々に、 「ジャポネースをやっつけろ」 「シンドーを殺せ」 と叫びながら、こん棒や斧、刃物を手に、日系の商店や住宅を襲い始めた。 暴動は八月一日、二日と続き、ツッパンから軍隊が一個小隊、出動、警備に当たるに及んで、漸く鎮静した。 以上の詳細については、爆破事件の被害者阿部豊が記録を残しているが、その中には、次の様な部分がある。

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