いまでは“封印同然の精神外科手術”の経験者が、医師の家族を殺害【ロボトミー殺人事件(1)】

いまでは信じがたいが、かつて人間は広範囲な脳組織を切断するという手法で精神疾患の治療を試みていた。その代表的なものが、前頭前野(思考や情動を司る領域)と他の脳領域を結ぶ白質連絡を外科的に切断し、症状の軽減を図る前頭葉白質切截術――「ロボトミー」である。 ロボトミーの歴史が始まったのは、日本でいえば昭和初期にあたる1930年代のことだ。ポルトガルの神経内科医エガス・モニスが推進し、〝画期的な治療法〟と受け止められ、北米やヨーロッパに広まった。日本でも戦前に導入され、戦後に普及した歴史がある。 当時の報告では、ロボトミーにより患者の症状がやわらぎ、落ち着きが増し、介助がしやすくなった例が相次いだとされる。1949年には、この術式の〝治療的価値の発見〟によりモニスがノーベル生理学・医学賞を受賞した。 一方で、ロボトミーには医療行為として致命的な負の側面があった。手術後に感情の平板化や自発性・判断力の低下、記憶・注意の障害が頻繁にみられた。また、けいれん・失禁などの合併症も少なくなかった。手術による死亡例、患者が自殺した例も報告された。さらに、同意が不十分なまま行われた例や、女性に偏って施行されたことを示す研究も複数ある。いったん断たれた白質連絡は元に戻らない。このため、人格を取り返しのつかない形で変えてしまうという倫理上の懸念は大きく、早くも1940年代には批判が上がり始めていたが、施行は日本を含む各国で続いた。 ここに紹介するのは、精神外科手術を受けた元患者が起こした強盗殺人事件である。 ■母と娘が惨殺され、金品が奪われた事件が発生 『朝日新聞』1979年9月27日付夕刊に、次の見出しが載った。 「元患者、医師の妻・母殺す 15年前の手術を逆恨み」 同日の午前4時ごろ、東京都小平市在住の精神科医Kさん(53)がタクシーで帰宅し、室内で妻Mさん(44)と義母Tさん(70)が血を流して倒れているのを発見。間もなく警察に通報した。駆けつけた小平署の警察官の調べによれば、2人は刃物のようなもので頸部を切られ、胸を刺されるなどして殺害され、室内は荒らされていた。警視庁捜査一課と小平署は、強盗殺人事件として捜査を開始した。 ■池袋駅で職務質問された男の正体 一方、日付が変わる前の26日午後10時ごろ、現場から約20キロ離れた東京都豊島区・池袋駅の改札付近で、池袋署の警察官が挙動不審の人物を職務質問した。男は刃渡り8センチの切り出しナイフを所持していたため、銃刀法違反(携帯)で現行犯逮捕となった。また、男はおもちゃの手錠、現金46万円の入った給料袋や銀行通帳なども所持していた。この時点では、小平市での殺人はまだ発覚していなかった。 翌27日未明、2遺体が発見される。押収品の照合が進み、小平の強盗殺人と池袋での現行犯逮捕――二つの出来事は、たちまち一本の線でつながった。現金入りの給料袋はKさんのもので、通帳は妻Mさん名義だったのだ。池袋で現行犯逮捕されていた男はS(50)といい、小平の事件の犯人だとみなされた。 ■Sの供述で明らかになった犯行の詳細 以下は、Sの供述による犯行の経過である。Sは26日午後8時ごろ現場となった住宅を訪ねた。当時在宅していたKさんの義母のTさん、ほどなく帰宅した妻のMさんをそれぞれ拘束。切り出しナイフで頸部を切り、胸部を刺して殺害した。しかし、Kさんがいつまで待っても戻らないことから、給料袋などの金品を物色して強奪。そのまま逃走したという。 強盗が目的ならKさんの帰りを待つ必要はない。そもそも、なぜSは当該宅をターゲットとしたのか? それは、新聞の見出しにあるように、Sは医師であるKさんの患者だったからである。 ■SはK医師の元患者で精神外科手術を受けていた 一方、妻と義母を同時に失ったKさんは、警察から容疑者Sの写真を示され、重要な証言を残した。 〝男は自分の元患者で、精神外科手術歴がある〟というのだ。 Sは約15年前、精神科医であるKさんの関与のもと、古典的なロボトミーとは異なるが、広義には 同様のものとして報じられることもあるチングレクトミー(前部帯状回切除術)を受けていた。以下、事件名は通称に倣い「ロボトミー殺人事件」、Sが受けた術式名は「チングレクトミー」と表記する。 当時の報道によれば、SはKさんが勤務する医療機関「A保養院」で手術を受けて以来、気力を保てず、感覚が鈍り、てんかん発作に苦しむようになった。やがて、自分の人生を手術により台無しにされたと考えたSは、「いつかケリをつけよう」との思いを募らせ、前年1月ごろにKさんへの復讐を決意した。その後、医師会名簿などをあたり、住所の特定を進めた。当時は個人情報への意識が現在より低く、職場や学校の名簿に住所や電話番号が掲載されるのが一般的だった。 その結果、SはついにKさん宅の住所を把握。そして犯行の数日前、切り出しナイフ、千枚通し、おもちゃの手錠(6個)、ガムテープなどを購入した。犯行当日はデパートの配達員を装い、室内に侵入。2人の命を奪ったのである。 精神外科手術はSの犯行にどれだけ影響を与えたのか。次編からはSの人物像と、この凄惨な事件とチングレクトミーの因果関係を手術の後遺症だけでなく、複雑な心理的・社会的要因も含めた多角的な視点から考察する。 中編に続く

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