最期まで「記者」貫く 信用回復託され日銀に 藤原作弥さん

藤原作弥さんが副総裁に就任した1998年、日銀は厳しい批判にさらされていた。 金融界による過剰接待を背景に、幹部職員が逮捕される事態に陥っていたのだ。松下康雄総裁は引責辞任、その後任の速水優氏を支えて信用回復を託されたのが藤原さんだった。 長く金融界に関わったとはいえ、それまでのキャリアを外部の記者、コラムニストとして積んできたのだから、当局者になるというのは百八十度の転身だった。まして当時はバブル経済崩壊後。97年に山一証券と北海道拓殖銀行、翌98年に日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が破綻し、日本の金融は崩壊寸前にあった。 藤原さんの心労は、いかばかりだったろうか。ある晩、東京・四谷荒木町の料理屋に呼び出された。いつものひょうひょうとした話しぶりだったが、帰り際に「もう一軒行きたいなあ。でも『囚人護送車』を待たせているから」と、笑いながら副総裁の公用車に乗り込んだ。偽悪的な表現で心労を紛らせたのかもしれない。 「本業」と言える執筆活動では、河北新報社主筆だった祖父の血を引いていたからだろう、洒脱(しゃだつ)な文章を量産した。ただ、満州からの引き揚げをテーマにしたときだけは、暗いトーンに終始した。同窓生の多くが命を落とした中で、生き残った「原罪」を引きずっていたからだ。 最後に原稿執筆をお願いしたのは、2021年の夏だった。終わったばかりの東京五輪と1964年に開かれた前回の東京五輪。この二つの間に流れた時の変遷を、自身の生活雑感を織り込みながら描いてほしいという依頼だ。 携帯電話から聞こえた声は即答だった。「いいよ、入院中で暇だから」。肝臓がんの手術が成功したとのことだった。最期まで「記者」を全うした人生だった。(元時事通信社常務取締役編集局長・谷定文)。

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