警察の捜査が、科学捜査やデジタル技術の導入によって今のように高度化する以前の昭和期には、連続して殺人を犯しながら、そもそも真犯人だと見抜かれないまま逃げ続けたり、指名手配されてからもなかなか逮捕に至らなかったりした犯罪者がいた。敗戦直後の混乱期に、女性への性的暴行殺人で少なくとも7人の女性を殺害した小平義雄。1965年に高齢者を中心に8人を次々に襲った古谷惣吉。女性たちを言葉巧みに誘い出し性的暴行を含む犯行の末に、短期間で8人を殺害した大久保清。長い間、消防士としての表の顔を持ちながら、裏では強盗などの目的で、立証されただけでも8人を殺害し続けた勝田清孝……。 ここでは、上記と同じく昭和の連続殺人犯であり、監督・今村昌平、主演・緒形拳で映画化もされた佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰について取り上げたい。裁判の過程で「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」、「悪魔の申し子」と形容されたとされるこの人物はいかなる残虐な罪を犯したのか。 ※文中敬称略 ■福岡で専売公社員ら2人が惨殺される 1963年10月18日、福岡県京都郡の国鉄(現在のJR九州)日豊(にっぽう)本線苅田駅西側の山道で、中年男性が頭をキリのようなもので刺されたまま、血まみれになって倒れているのが発見された。死亡が確認された被害者は日本専売公社(JTの前身)の職員で58歳のMさんという男性だった。同日、そこから約2km離れた田川郡香春町の仲哀峠(ちゅうあいとうげ)で、乗り捨てられたような小型トラックが見つかり、その350m離れた地点で男性の遺体が見つかる。手ぬぐいで両手を縛られ、ロープで首を締められていた。この被害者はGさんという38歳の男性で、放置されていた小型トラックの運転手だとわかった。 専売公社職員のMさんと運転手のGさんは仕事仲間だった。専売公社の商品(タバコ)をGさんが運転するクルマでタバコ販売店に届け、Mさんが集金をしていた。つまり、業務が終わったあとのMさんはそれなりの大金を所持することになる。遺体発見現場は離れていたものの、被害者2人の関係性が深いこと、Mさんの集めた約43万円のうち27万円がなくなっていることから、福岡県警は同一犯人による強盗殺人事件と睨んで捜査を開始した。Mさんの最後の集金先の人は、2人が〝30歳ぐらいの男と行動をともにしていた〟と証言した。別の目撃者による〝小型トラックには3人が乗っていた〟という旨の証言もあった。警察はこの男の行方を追うことになる。 翌19日、この第三の人物は特定され、2つの殺人事件の有力容疑者として指名手配された。窃盗・詐欺・恐喝などの前科のある西口彰(にしぐちあきら)で、年齢は37歳、大分県出身、職業は運送会社の運転手だと公表された。犯行の様子から、強盗目的で人命を身勝手に奪ったと考えられた。 ■2人が殺される。犯人の目的は? この指名手配の件が報道されてから1ヶ月後の11月19日、静岡県浜松市で2人の女性の遺体が発見される事件があった。被害者は歓楽街にある貸席「ふじみ」を営んでいたYさん(41)とその母であるHさん(61)である。「貸席業」とは、宴席を開くための部屋を時間単位で貸す商売で、男性客と接客する立場の女性が飲食したり、ときに性的なサービスを伴う場として使われたりすることもあった。2人とも細い紐のようなもので首を締められ、Hさんは両足を縛られていた。タンスなどが荒らされていたため、地元警察は強盗殺人事件とみて捜査を進めた。その後、犯人は質店に電話をかけて、被害者宅の電話加入権や衣類、貴金属などを売って現金を手にしていたことがわかった。また、質店店主の証言では、この人物は山口県宇部市の出身だと話していたという。 警察は容疑者として、ある人物の犯行である可能性を疑った。あの福岡での強盗殺人事件の容疑者・西口彰である。目撃証言では年齢や顔の特徴が西口彰と一致していた。もし、これも西口の犯行だとすれば、指名手配中の容疑者が、堂々と同じような犯行を重ねたことになる。そして、11月21日、浜松の警察は西口の犯行だと断定した。指紋が一致したからである。 ■指名手配ポスター30万枚が全国に あとでわかることだが、この2つの事件の犯行には類似した部分があった。犯人はいずれも訪問していきなり凶器を振りかざすことも、寝込みを襲うようなこともしていない。時間をかけて距離を詰めていき、親しくなってから無慈悲に殺害して金品を奪っているのだ。当時、福岡、静岡と離れたエリアで同じ犯人が強盗殺人事件を行うというのは珍しいケースだった。本当に両事件の犯行が西口の仕業だとしたら、以後もいつどこに現れ、逃亡資金を得るために、また同じような犯行を繰り返す可能性があるのか分からないといえる。この点から、警察は、西口を重要指名被疑者として全国に指名手配した。11月末には公開捜査として、西口の顔写真入りポスター30万枚、チラシ20万枚が全国に配布され、市民からの情報を募った。当時は、派出所や駅、公共機関のほかに、一般の商店や銭湯などにもこうしたポスターなどが掲示されるのが一般的だった。これは、犯人を追い詰める効果があった。だが、西口はすぐには逮捕されなかった。 ■都内で殺された81歳男性は弁護士だった 暮れも押し迫った12月29日、東京都豊島区の集合住宅でIさんという81歳の弁護士の男性が自室で殺害されているのが発見された。Iさんは妻を亡くしたあとも自立した生活を望み、一人で暮らしていた。遺体を見つけたのは、Iさん宅を定期的に訪ねていた長男だ。 遺体は死後一週間程度が経過しているとみられた。警察の調べに対し、長男は極めて重要な証言をした。実は遺体発見の一週間前の12月22日にも父親の家に顔を出していたが、そのときは「留守番を頼まれた」と名乗る中年男性が出てきたと証言していた。また、別の近隣住民も同月23日に留守番を名乗る男が在宅していたことを目撃した。22~23日頃はまさに、Iさんが殺害されたと考えられる時期であり、その間、何者かが少なくとも2日にわたりIさん宅に上がり込んでいたのである。犯行に関与している可能性が著しく高いこの人物の正体について、警察はあの重要指名被疑者の名前を念頭においた。しかし、当初は西口彰の犯行だと特定できる証拠は何もなかった。大晦日の新聞は、西口以外の可能性も視野に捜査が進められていること、解剖によりIさんはネクタイのようなもので首を締められて殺されたことがわかったと報じている。 福岡、浜松、東京、3つの強盗殺人事件が解決しないまま、1963年は終わった。東京オリンピックの開幕を控え、高度経済成長期のさなかにあった日本のどこかで、西口は逃亡生活を続けていた。 後編に続く