江戸時代から現在までの立ちんぼの歴史を風俗ジャーナリスト・生駒明氏が紹介する『立ちんぼの近現代史』。第4回は昭和後期から平成にかけての「外国人立ちんぼ」について。その【後編】だ。 【前編】路上で胸元や太ももをあらわに…外国人ストリートガールが出現した平成時代 ◆平成の大阪・立ちんぼ事情 平成時代は東京だけでなく、地方都市にも立ちんぼがあふれていた。 ’90年代から’00年代にかけて大阪・天王寺では、日本、韓国、中国といったアジア系熟女が立ちんぼをしていた。天王寺駅側の商店街から、反対側のラブホ街側の歩道にかけて立ち、立ちんぼ女性を車に乗せてラブホに入る客もいた。パトカーが現れると姿を消し、いなくなるとどこかからまた戻ってくる。当局とのイタチごっこを繰り返し、一向に減らなかった。天王寺駅の周辺には、60歳過ぎの女性もいたという。 大阪には、立ちんぼが昔から続く〝文化〟としてしぶとく根付いていた。その日の食事代を稼ぐために〝立ちんぼ暮らし〟をしている浮浪者の老女がたくさんいたのだ。駅の周辺だけでなく公園にもこういった女性がおり、地元の常連客の話によると、大阪の立ちんぼは、声をかけなくても目と目の合図でホテルについてくるので、世間体も守れられるという。 大阪・梅田の歓楽街には金髪のロシア人街娼が出没した。2万円で3Pができたという。また、地下街「ホワイティうめだ」にある〝泉の広場〟は、援助交際女性の集合場所として有名であった。20代前半の日本人女性が多かった。 大阪では、日本橋や新世界にも立ちんぼがいた。日本橋周辺のラブホ街には韓国系が多く出現。台湾系のニューハーフ、南米系もいたが、日本人はほとんどいなかった。通天閣の近くの新世界にはラブホテルが林立しており、日没になると日本人熟女が出没した。母娘と3Pができる〝親子立ちんぼ〟もいた。また、谷九のラブホ街にも街娼が現れた。 ◆名古屋や横浜にも… ラブホテルが並ぶ名古屋・納屋橋の堀川沿いには、平成15(2003)年ごろ、多くの外国人女性が立っていた。その光景は「週末の名古屋名物」と言えるほどで、アジア系、白人に加え、黒人も少々と〝人種のるつぼ〟だった。その後、当局の徹底した取り締まりによりほぼ姿を消したが、納屋橋から大須観音にかけて再び白人女性が立った。街灯が少なく顔がはっきり見えないのが残念だった。ニューハーフもいた。日本人は熟女が多かった。 平成17(2005)年の愛知万博(愛・地球博)前に一斉取り締まりがあったが、5年ほど経つと復活してきた。なお名古屋駅西口のビックカメラの入り口付近には、自転車を引きながら男を物色する素人人妻のアルバイト立ちんぼが出没していたという。 横浜にも街娼がいた。’00年代初頭には、週末になるとタイ、韓国、中国というアジア系が伊勢佐木町に、コロンビア、ベネズエラなどの南米系が末吉町に、それぞれ大量に姿を見せた。ごく僅かだが日本人も現れた。黄金町の〝ちょんの間〟で働けない素性の悪い女性が立ちんぼになっていたという。南米系の金髪女性はノリがよく、プレイ後にマッサージまでしてくれるサービスのいい女性もいた。夜の大岡川沿いに立つ金髪美女の姿は、妖しさとともにロマンチックな風情があった。 この他、日本人熟女の立ちんぼが、札幌・すすきの、京都・四条河原町、福岡・博多など、全国各地にいた。神戸のソープ街の福原では深夜0時を回ると、関西圏の風俗店で働く女性が次々とやって来て路上に立った。サービスは濃厚だったという。 ◆新宿歌舞伎町で起き始めていた〝異変〟 東京・新宿歌舞伎町で大久保公園に隣接するハイジアビル周辺は〝都内有数の立ちんぼスポット〟として、平成中期にはすでに有名になっていた。ハイジアビルとラブホテル群の間の狭く暗い道をそぞろ歩くと、ミニスカート姿の妖艶な女性たちが、ねっとりとした流し目で誘いをかける。年増のアジア女性などが出没し、ニューハーフなどの姿もあった。 この場所には、20代の日本人女性もいた。毎日ではなく暇な時やお金がなくなった時だけ仕事をする「援交待ちのプチ立ちんぼ」である。援交サイトは相手が見えないから怖い。風俗店は出勤時間が決まっているから面倒臭い。プロの街娼ではなく、あくまで素人として自由に稼ぎたい女性たちであり、それは〝新種の立ちんぼ〟であった。ハイジアビルの正面口で、私も誘いの声をかけられたことがある。「お兄さん、遊ぼうよ」と座りながら呟いたのが、ごく普通の若い日本人女性だったことに驚愕したものだ。 平成24(2012)年ごろになると、ハイジア周辺には未成年の〝立ちんぼ少女〟も出現した。相場は2万円前後で、13歳の少女もいたという。背景には出会い系サイトへの規制の強化があり、それが路上売春を促すという皮肉な結果を生んでいた。少女たちの稼ぎの大半は洋服や遊びの代金として消えていく。また平成26(2014)年ごろには、小遣い稼ぎが目的の〝普通の女性〟が、それまで以上に目につくようになる。看護師やキャバクラ嬢が、毎日のように路上に立っていたプロたちが前年末に逮捕され一掃された代わりに街娼をしていた。 彼女たちは「生活苦のため」「家族を養うため」に立ちんぼをしていたのではない。目的は「買い物や遊びの資金を稼ぐため」である。〝若い女性たちは貧しさゆえに街娼をやっている〟というのは一種の〝都市伝説〟なのだ。また「大金をホストに貢ぐため」でもなかった。この頃はまだ悪質なホストクラブが、現在ほど大きな問題になっていなかった。 ◆風俗産業の中では〝底辺〟だった 平成時代の立ちんぼの中で〝特殊なケース〟として注目されたのが、平成9(1997)年3月に起きた「東電OL殺害事件」である。東京電力に勤務する39歳のエリート女性社員が、東京・渋谷の円山町のラブホテル街で街娼をしていた。そして、何者かに殺されてしまった事件だ。彼女は会社が終わると、当初は人妻・熟女系のホテトルで働いていた。だが「お茶をひく」ことに辟易し、いくつも店を変えつつ、フリーランスの立ちんぼをやっていたのである。優等生と街娼という2つの顔を併せ持つ女性の存在は世間に大きな波紋を呼んだのだった。 平成時代の立ちんぼは、海外から出稼ぎで来日していた外国人女性が主流だった。日本人女性もいたが、数が少ないうえ、新宿と梅田以外は総じて年増でルックスも良いとは言いがたく、存在感はあまりなかった。 平成前半は風俗産業が盛んで、風俗嬢にとっては〝稼げる〟時代だったが、その状況の中でもソープやヘルス、デリヘルなどの一般的な風俗店で客がつかない女性や、年齢や国籍などの事情からそもそも雇ってさえもらえない底辺の女性がいた。彼女らが〝ちょんの間〟や連れ出しスナックなどといった非合法の裏風俗に流れ、その最後に行き着くのが街娼だった。路上売春は、他の風俗業種で稼げない女性たちの受け皿的な存在であった。だから’90年代は「東電OL事件」のように〝普通〟の女性が街角に立つことはきわめて〝異質〟だったのだ。 私が何度も現場を取材して感じたこの時代の外国人立ちんぼたちの特質は「明るかった」ことだろう。夜の街に立つ外国人女性たちから〝春を売る負い目〟〝暗さ〟〝貧しさ〟などを感じることはなかった。特に南米系の女性たちはあっけらかんとしていて、豊かな経済大国である日本にいることを楽しんでいるようにさえ見えた。外国人立ちんぼの出現は、日本が戦後の〝パンパンの時代〟から豊かになったからこその現象だった。それがすっかり逆転してしまった現在からみれば、遠い昔のおとぎ話のようにさえ感じてしまう。 次回は、コロナ禍を経て再び若い日本人街娼が増加する令和時代の立ちんぼ事情について、解説していきたい。 取材・文・写真:生駒明