ソ連抑留を「最大の幸福」と語る台湾出身元日本兵の呉正男さん(98)。そう言わしめる複雑な心境には、激変した台湾史が大きく絡んでいる。 日本統治下だった1927年、台湾中部・斗六(とろく)で生まれた。父・開興さんは地元の有力役人。日本語を常用する模範家庭として「国語家庭」の認定を受けた。皇民化政策で、一家は「大山」に改姓した。 呉さんは8人きょうだいの長男で、41年に東京の中野中学校に進学。剣道で心身を鍛えた愛国少年は、中学3年の44年3月、陸軍特別幹部候補生に志願した。やがて水戸陸軍航空通信学校に入隊。2400人から機上勤務者200人が選ばれた。台湾出身は呉さん1人。「誇らしい思いがした」 44年12月には、茨城県内の挺身滑空飛行第一戦隊に配属された。重爆撃機が滑空歩兵20人を乗せたグライダーをえい航し、敵地上空で切り離す。着陸したグライダーの歩兵は地上攻撃に入る。その特攻部隊で、呉さんは重爆撃機の通信士だった。 南方への出撃が決まり、「私物や遺書、切った爪を家族に送れ」と指示された。だが先発した歩兵が乗った艦船が東シナ海で米軍に撃沈されて作戦は中止に。徐々に制空権を失う中、部隊は45年5月、朝鮮北部の宣徳飛行場に移動した。 ◇特攻作戦「熱烈望」も… 45年6月、1枚の紙が配られた。米軍に占領された沖縄に向けた特攻作戦参加の意思確認だ。「志望」「熱望」「熱烈望」とある。 「いよいよ順番が来た」。呉さんは死への決意を固め「熱烈望」を選んだ。だが特攻隊員に選ばれなかった。長男は外されていた。 8月15日の玉音放送は「雑音がひどくて意味がよく分からなかった」という。乗車した列車の窓越しに朝鮮の人々の歓声が聞こえ、敗戦と知った。 武装解除後、ソ連軍の捕虜となり、朝鮮北部・興南で同じ部隊の仲間と船を待った。だが呉さんは皮膚病に感染し、1人だけ隔離される。回復後、シベリア鉄道に乗せられ、そこで初めて日本に戻れないと知った。23日間移送された先は、カザフスタンの収容所。先に出発した仲間たちは別の収容所に3年間抑留された。 ◇命運分けた抑留期間 呉さんは「過酷な抑留生活は思い出したくない」と話しつつ、「一番の幸せは抑留。だからソ連の悪口はあまり言いたくない」とも語る。 それは抑留期間が仲間と同じ3年ではなく、2年だったことで、後に自身に降りかかったかもしれない難局を回避できたと考えているからだ。その一つが、日本に上陸できたことだ。 呉さんが知る限り、抑留された台湾出身者は他に3人いる。呉さんは47年7月に京都・舞鶴港に上陸したが、48年になると、同じ台湾出身者でも舞鶴で上陸できず、「台湾に帰れ」と長崎・佐世保に送られ、台湾に戻った人もいた。 その台湾は混乱の中にあった。戦後、日本が去った後の台湾は、中国大陸から渡ってきた国民党政権が統治した。 一方、中国大陸では国民党と共産党の内戦が激化。台湾に戻った元日本兵の中には、国民党軍の兵士として内戦の激戦地に送られた者もいた。大陸で捕虜になった元日本兵の中には、共産党軍に入った者もいた。 台湾では47年2月、国民党政権が民衆を武力弾圧した「2・28事件」が起きた。事件後も、政権は反体制派とみなした者に対して無差別逮捕や処刑を行い、「白色テロ」と呼ばれた。日本と戦った国民党政権から「敵に加担した者」とみなされ、弾圧を受けた元日本兵もいる。 呉さんが47年10月、台湾の両親に復員を知らせると、「日本で復学するように」と言われた。「台湾に帰ろうと思っていたので予想外だった」。呉さんは故郷の混乱を知らなかった。日本で働きながら高校夜間部を出て法政大に入った。 抑留で進学が遅れたことも自身を救ったという。 大陸では国共内戦で共産党が勝利し、49年に中華人民共和国が建国された。新中国は華僑らの帰属意識を高め、日本に留学した台湾の若者でも大陸に渡る人が相次いだ。 大学4年の時、先に卒業した同輩たちが舞鶴港から大陸に渡航するのを見送った。「自分も卒業したら大陸に行こう」と決意。だが音信は途絶え、新天地への期待は疑念に変わった。60年代からの文化大革命では、華僑らは「資産階級」などとして弾圧された。 呉さんは54年に大学卒業後、横浜中華街の信用組合「横浜華銀」に入り、理事長まで務めた。「台湾、中国、どちらに渡っていても自分は命を落としたかもしれない。2年間の抑留が結果的に幸運につながった。人間万事塞翁(さいおう)が馬だ」 ただ、日本人として出征し抑留されたのに「復員したら外国人にされていた」とも語る。補償の対象から外された心境は複雑だ。 ◇恩給「もらったことない」 日本人には軍人恩給などが支給されるが、国籍条項があり、台湾出身者らは日本国籍を喪失したとして対象外になる。80年代に台湾出身者の戦没遺族や重度戦傷病者に弔慰金などを支給する法律ができたものの、台湾在住などの条件があった。2010年にはシベリア抑留者に特別給付金を支給する特措法ができたが、対象はやはり日本人。台湾籍の呉さんは、こうした支給について「全くもらったことはない」と明かす。 呉さんは台湾出身元日本兵の存在が忘れられてしまうと危機感を抱き、自身の経験を講演などで語ってきた。今年7月には呉さんの呼びかけから、横浜市の真照寺に台湾出身戦没者慰霊碑が建立された。「私が語り続けることで、少しでも日本と台湾の平和につながればと願っている」【鈴木玲子】