釈放は、司法大臣の命によるもので、これ以上、拘置すべき理由がないという様なことであったらしい」 この件も、判り難い。押岩は明らかにサンパウロで起きた四件の事件の共犯者であり、本人も認めていたのに、釈放というのは理に合わない。 あるいは、それ以前に行われた裁判で、決行者の被告たちが皆「自分で決め自分でやった」と証言し、判決も下って結審していたためかもしれない。いわゆる一事不再理である。 押岩談、続く。 「釈放後、ワシは時々刑務所へ、服役中の同志に面会に行った。刑務所では、画家を指導者に招き、受刑者に絵の勉強をさせていた。同志が描いた見事な作品が、壁にかけてあった。 特行隊員たちは、刑務所では皆、模範囚であり、刑期よりかなり短期で仮釈放された。長い者でも十数年だった。 彼らが出所してくると友人、知人が良くしてくれた。仕事を世話し、独身者は結婚させた。 誰もがささやかな仕事につき、社会的には一歩下がって、出しゃばらない姿勢で生きた。が、殆どが死んだ」 押岩自身は、拘置所を出た後、広島県人会の事務所に勤めた。 戦後移民の世話をよく焼いた。その人々が感謝のため、立派なレストランで、押岩の喜寿や米寿の祝いをし、それが邦字紙の記事になったこともある。 日高徳一は、刑務所は、アチコチ転々と移動させられたが、十年余で仮釈放された。 自分にあるのは二本の手しかないので、それで出来る仕事を…とマリリアで空き地の一隅を借り、小屋掛けして、自転車の修理屋を始めた。 最初の月はサラリオ・ミニモ一カ月分の収入があった。それから、少しずつ増えて行った。 やがて結婚した。 店舗を幾つか持つまでになった。 脇山大佐の命日の六月二日になると、身を清め法要をした。併せて野村忠三郎の冥福を祈った。二人に対しては、個人的には何の恨みもなかった。経を読むことのできる仲間がいて、協力してくれた。 その法要は六十数年後、筆者がこの項を執筆時(二十世紀末)も続けている。 山下博美は、アンシエッタにいた時、刑務所の診療所のラボラトリオの仕事を手伝わされていた。その後、胃を病みサンパウロの拘置所へ移された。回復後も、そこで同じ仕事をさせられた。 裁判の判決が出た後も、そのままこの仕事を続けるように命じられた。従って刑務所入りはしていない…というのはオカシナな話だが、そういう融通のきく仕組みになっていたのである。 十三年後、仮釈となった。 出所後、家族が心配するので結婚した。 仕事を探していた時、ウジミナスが通訳を募集したので応募、試験を受け、採用通知を受取った。 が、仮釈中は月に一度、警察に出頭しなければならないことになっていたため、会社側に相談すると、前歴が判って採用は取り消された。 日本からの派遣者は解ってくれたが、地元の邦人社員が、それに反対したという。 サンパウロで、ラボラトリオの仕事があったので、そこで働いたが「金がなくて金がなくて…」という生活が続いた。 ポンペイアの日本学校時代の先生を招いての同窓会があった。出席すると、同席者の中に、 「山下が、ああいうことをしたので…」 と言い出す者がおり、気まずい空気が流れた。先生が仲裁に入って、 「山下は山下の考えがあって、そうしたのだから…」 と、とりなしてくれた。 二〇一〇年、八十六歳で病没。 蒸野太郎は逮捕されDOPSに留置されていた時、看守が呼び出しに来て、別の部屋に連れて行かれた。 そこに、彼が撃った野村忠三郎の遺族がいた。 「申し訳ありません」 と、謝罪した。 遺族は黙っていた。 蒸野は、裁判では十九年の刑を受けた。裁判官は上告の道があることを教えたが、こう言って辞退した。 「自分一身のため、この国のお金を、これ以上、多少でも費やすことは遠慮致します」 お金とは、裁判中の経費その他のことであろう。 受刑中の扱いは、極めて良かったという。 その間、ポルトガル語を初歩から学び直し、電気技師の免状も取得した。 刑期よりかなり短期で出所、民間のテレビ局に就職、一部門の責任者になった。 そのテレビ局が国営化された。外国人社員は帰化することを求められた。他の外国系の社員は帰化したが、蒸野は断り退職することにした。