沖縄県で1995年9月に起きた米兵3人による少女暴行事件から30年がたった。事件をきっかけに沖縄では怒りが爆発し、その結果、日米両政府は沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場の返還で合意した。ただ移設先は県内の名護市辺野古で、なおも返還には時間を要する。米軍に特権を許す日米地位協定の改定は実現できないままだ。 事件はなぜ、普天間の返還合意につながったのか。米軍による事件はなぜ根絶されないのか。当時の県幹部や専門家への取材を通じ、沖縄と日米両政府の「妥協点」として見いだされた普天間返還の経緯を検証した。(共同通信=吉岡駿) ▽守れなかった尊厳、集まった8万5千人 事件が起きたのは1995年9月4日。それからほどない日の沖縄県庁は、朝から慌ただしかった。当時基地対策室長だった粟国正昭(あぐに・まさあき)氏は県職員から事件の内容を聞き、知事公室長と共に大田昌秀(おおた・まさひで)知事の元へ向かった。粟国氏らが思い出していたのは、日本復帰前の1955年に米兵が6歳の女児を殺害し遺棄した「由美子ちゃん事件」だった。粟国氏によると、大田氏は事件を聞き「驚いたと同時に、屈辱感がよみがえった様子だった」という。