近年、これほど圧倒的な映画体験があっただろうか。日本でも公開が始まった、ポール・トーマス・アンダーソン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の一作『ワン・バトル・アフター・アナザー』である。 「PTA」と呼ばれ親しまれる監督の天才的な手腕は、誰もが認めるところだ。詩情にあふれた筆致でアメリカ映画の裏側に光を当て、彼の名を広く知らしめた『ブギーナイツ』(1997年)、群を抜いた迫力で資本主義の本質をえぐり出した『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)、アメリカに巣食うカルト宗教を題材に心の依存の問題に迫った『ザ・マスター』(2012年)など、その研ぎ澄まされたテーマ性や、優れた抽象性、そして文学性は、彼の射程とする世界がどれほど幅広く、また深いところにまで達しているのかを表している。 そんな大きな足跡を残してきたPTAが、さらに新しい地平へと踏み出し、大きな前進を見せる。これまで彼の作品は、主にアート文脈や、アメリカの現在を表現する文学としての面から大きな評価を得てきたといえる。しかし『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、それらの特長を十分備えた上で、単純に娯楽作品として激烈に面白いのだ。こんな映画が、あっていいのか……。鑑賞中、困惑させられるほどに楽しく、深い体験に打ち震えるしかないのである。 ここでは、そうした本作『ワン・バトル・アフター・アナザー』とは一体何なのか、その捉え難い巨大な魅力を、さまざまな角度から考えていきたい。 ※本記事では、『ワン・バトル・アフター・アナザー』のストーリー展開を明かしています 物語は、架空の極左革命グループ「フレンチ75」のメンバーたちの破壊活動の模様からスタートする。そこに所属する、レオナルド・ディカプリオ演じるパットと、テヤナ・テイラー演じるパーフィディアは恋人同士で、ともに爆弾を使って敵対勢力や企業中心の資本主義社会に被害を与えるという危険な任務に身を投じているのである。まるで「ボニーとクライド」のように、刺激的で破滅的な“青春”をおくる2人。だが娘が生まれたことで、両者の価値観の違いが際立つこととなる。 パットは生まれたばかりの娘に責任があるとして、これまでのような生活はできないと、理性を働かせる。対してパーフィディアは、それでも自分の行動に限界を定めず、リスクある行動を取り続ける。結果として彼女は重大な犯罪をおかし、逮捕されることに。そこで彼女は、あろうことか司法取引によって仲間を売り、さらには収監から逃れてメキシコへと逃亡。姿を消すのである。 それから16年後、パットは“ボブ”、成長した娘は“ウィラ”(チェイス・インフィニティ)という偽名を名乗って、カリフォルニア州の都市に移り住んでいる。そこはサンフランシスコやロサンゼルスなどと同様、「サンクチュアリ・シティ(聖域都市)」に位置付けられる場所だという設定。この比較的リベラルな土地柄では、移民を保護する方針が定められているため、不法移民に対する強制捜査がしづらく、身元がはっきりしない人々が身を寄せやすい。だからこそ、彼らもまた隠れやすかったのだったと考えられる。この都市で移民の面倒をみている“センセイ”(ベニチオ・デル・トロ)もまた、アパートに不法移民を匿い、隠された逃走経路を用意している。 厳命により携帯電話をウィラに持たせないようにするなど、いまだ注意を払うボブではあったが、中年になって体は重くなり、アルコールやマリファナなどに依存し、ときおり幻覚にもさいなまれている。逃亡劇が始まるのはこれからだ。ショーン・ペン演じる軍人のロックジョーという男が、ある目的のために麻薬捜査に偽装してウィラの身柄を抑え、ボブを制圧しようとしてくるのだ。ウィラと離ればなれになってしまったボブは、地下を這い、屋根から屋根に飛び移ろうとしながら、追っ手の包囲網から逃れウィラとの合流を目指す。果たしてボロボロの彼は、ウィラを救うことができるのか。 最愛の娘を救うために奔走し続けるボブの姿は、とても若き日にレジェンドと呼ばれたような革命のヒーローとは呼びづらい。ウィラを匿っていると考えられる古巣の「フレンチ75」に久々に電話連絡する際、合言葉を忘れたために、無常にも電話番が取り次いでくれないというシチュエーションでは、キレたり脅すような口調になったり、急に低姿勢になり情にうったえようとするなど、コントのように笑える姿を見せてくれる。だが同時に、そんなあまりにも人間くさい面が、共感を呼び涙を誘うところもある。演じるレオナルド・ディカプリオは、類まれな演技力でさまざまに印象深い役柄を演じてきたが、本作が史上最高の仕事だと言っても、違和感はおぼえない。 一方、移民政策の執行を担う軍人ロックジョー役を手がけた、ショーン・ペンの異常なまでの怪演も凄まじい。もう一度ストーリーを16年前に戻すが、ある経緯からこのロックジョーはパーフィディアに性的な興味を持ち、執拗に付きまとうようになっていた。彼女の弱みを握って一度関係を持ったロックジョーは司法取引にも関与し、パーフィディアに裏切りを促すとともに、「フレンチ75」に壊滅的損害を与えたことで一気に昇進する。結局、パーフィディアはロックジョーの支配を嫌い国外に逃げたのだが。 社会的地位を得たロックジョーは、白人至上主義、純血主義を掲げる異様な秘密結社「クリスマス冒険クラブ」への入会が検討される。どうやらその団体は権力を持った白人の“名士”でなければ入ることができないらしく、彼はついに自分が憧れていた、利権や特権を享受するエリートになれることを誇りに思っているようだ。近年アメリカでは、キリスト教以外の市民に配慮し、年末の時期に「クリスマス」という呼び方を避け、「ホリデー・シーズン」という呼称を用いることが多くなっている。「クリスマス冒険クラブ」は、ボーイスカウトのような閉じられた規律を連想させながら、あえてクリスマスを強調することによって、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(MAGA)」のスローガンと同じく、アメリカの保守的な時代への回帰を示唆している。 「クリスマス冒険クラブ」が、かなり現実ばなれしているように見えるのは、本作のインスピレーション元となった、トマス・ピンチョン『ヴァインランド』が、アメリカ社会の利権構造やネットワークを、ポップに戯画化して描いたことに起因する。アメリカのポストモダン文学の旗手でもあるピンチョンは、解体、再構築という「脱構築」のプロセスを経て、こうしたアメリカに横たわる差別主義や権力者による構造を戯画として表現している。そのため、本作の「クリスマス冒険クラブ」にも、異様さと滑稽さが漂う象徴的意味が反映されているのである。また、この小説では、1960年から1980年代にかけての左翼主義運動の理想と失墜とが語られ、ロナルド・レーガン大統領再選という状況とともに、いかに敗残し忘れ去られるのかが描かれていた。