この連載始まって以来の青田買いになるかもしれない。 今回ご紹介したい作品は久永実木彦『雨音』(KADOKAWA)である。 本連載は「次の直木賞候補になりそうな作品」を取り上げる決まりになっている。本書は久永にとって初めての長篇で、これまでの単著はSFの賞である第55回星雲賞(日本短編部門)を受賞した表題作を含む『わたしたちの怪獣』(東京創元社)である。なので実力の程は見えないところがあるのだが、ぜひいろいろな人に読んでもらいたいのである。いい小説だと思うからだ。 東京都N**区にある奥石大学のカフェテリアで、映画研究会〈幻燈〉の面々が、コンクールに参加するための短篇映画は何を撮りたいか、と相談している場面から始まる。奥石大学は「いちおう東京都なのだけれど、隣接する埼玉県に属していると誤解されることも少なくな」いようなのどかな立地にあり、「偏差値は高くも低くもな」いが、「自分には他者とちがう特別ななにかがあるかもしれない」と錯覚しうるくらいには通過儀礼の厳しさを味わったことのない、ごく普通の若者が通っている。時は5月で「じきに梅雨がはじまることなど、だれも気にかけていな」い穏やかな天気の日である。だから語り手である〈ぼく〉ことスミヒコも、「遠くから花火のような音があらためてきこえた」ことなど気にもしない。 ここで章が変わり、録音された通話音声やウィキペディアの項目、SNS投稿や週刊誌の記事といった、第三者による記述で何が起きていたかが明かされる。花火のような音は銃声だったのである。後にそれは奥石大学銃乱射事件と呼ばれることになる。教員2名、学生29名が死亡することになった惨劇が、彼らのすぐ近くでまさに始まろうとしていたのだ。 脚本家を目指していた1年生の二葉さん、SF映画好きの同じく高科くん、2年生で頭脳派的キャラクターの杵島くんも、カフェテリアに侵入してきた殺人者によって、みんな命を奪われた。スミヒコは幸運にも難を逃れたが、同じ3年生のフジオは撃たれて脊髄を損傷し、下半身不随になった。銃という凶器による暴力は、いとも簡単に他者の人生を断ち切り、それまでの幸福を奪い取る。 撃たれる前の話し合いでフジオは、ドキュメンタリーを撮りたいと発言していた。スミヒコは〈幻燈〉部員から人生を奪い取った奥石大学銃乱射事件を撮ろうと提案する。自分だけが生き残ったという罪悪感も彼を衝き動かす。「整理されていない、いましか撮ることのできない混沌とした景色を撮ることに意味があるのではないか」と彼は思う。事件の犯人は生きて逮捕されることはなく、自ら準備した爆発物によって命を絶った。スミヒコがドキュメンタリー制作を思い立った時点で、未だ身元不明のままなのである。黒の上下で身を包み、やはり黒のペストマスクで顔面を覆っていたことからインターネット上などでは〈痩せ烏〉の異名が奉られていた。 撮影は開始され、インタビューはフジオから始まる。だが思いを語り始めた彼の口は途中で止まり、何も言えなくなる。この小説の中では、人が自らの感情に驚く場面が幾度か出てくる。自分が思っているよりも自分の心は複雑で、それを言葉にすることは難しいのである。結局ドキュメタリー制作はスミヒコとフジオ、幽霊部員だったキミドリさんの3人が共同監督という形式で進められていくことになる。 中断された人生を再起動させ、未来を取り戻したいという渇望がスミヒコの背中を押している。ただし見切り発車で始めた試みだけに、前途は多難だ。撮影を開始したときには見えていなかったこと、わかっていなかった問題が浮上して彼の心をぐらつかせる。 インタビューで話をしてくれた男性のひとりは事件で息子を失った父親だ。事件後、インターネットには無責任な流説が溢れ、中には〈痩せ烏〉と犠牲者の間にはなんらかの関係があったのではないかという陰謀論まで口にする者もいた。そうした連中に怒りを燃やしつつも父親は何もすることができない。すでに犯人はこの世にいないのだ。〈痩せ烏〉に殺された息子の人生は無意味だったのではないかという考えが、父親の心をさいなむ。そしてスミヒコたちに彼は問う。「この映画は、だれかを救うことになるのだろうか?」と。 この発言がされるのは物語の折り返し付近である。スミヒコたちの映画制作を通じて作者は、救済は容易に得られるものではないという厳しい事実をつきつけてくる。それと同時に、誰かを救いたいと願い、祈ることも肯定する。現実に足がついたところで純粋な思いの尊さを描こうとしているのである。辛いことが起きる物語ではあるが、根底にこうした思いがあるために、小説は美しいものになっている。暗闇の中にはどこかに細々とではあるが一条の光が差し込んでいる。