呂布カルマ「家族がアーティストから"奪うもの"と"与えるもの"」

ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『家族の存在』について語った。 * * * ★今週のひと言「もしも俺が今も独身だったら、どんな事態になっていたか」 アーティストが家庭を持つというのは、どういうことか。 それは基本的にはマイナスのほうが多い。 芸風にもよるのかもしれないが、ことさら清濁併せのんで自分自身の生きざまを歌詞にしたり、ライフスタイルで表現するラッパーにとっては、相性がいいとは言い難い。 おそらく、お笑い芸人もそうだろう。つまり、守るものがあれば攻めたことがしにくくなるからだ。 俺のような不良でもなんでもないアンダーグラウンドラッパーでさえ、20代ぐらいまでは冗談抜きでいつ死んでも構わないと思っていた。 文字どおり手段を選ばずラップに人生をかけ、その結果逮捕されたり、最悪命を落としたりしても、ラッパー冥利(みょうり)に尽きると信じていた。 世間一般のラッパーに対する負のイメージ、すぐ死んだり、逮捕されたりというのは間違いなくて、ラッパー自身がそれもひとつの正解としているのだ。 幸い俺はそのような目に遭わなかったが、同時代に活躍したラッパーの中には、有名無名問わず、そんな生き方をしていた者が大勢いたし、それは現在の若いラッパーにも共通する感覚なのではないだろうか。 しかし、今の俺はそうではない。家族を持ったからだ。 妻や子を持つと俺の人生は俺だけのものではなくなる。と同時に、ラップに命をかけてる場合ではなくなる。時間切れだ。俺はそれを見越し、20代の最後に出したサードアルバム『STRONG』でその手の表現を出し切った。 そこで死ななかった俺はその先は表現やライフスタイルを制限されながら窮屈な表現にとどまることになったのだが、意外と制限されているからこそ見える景色もあって、それはそれで悪くない。 具体的に言えばまともになったのだ。多少は。 若い頃は「おまえらとは違う、特別な俺」を歌っていたが、「おまえと同じ俺」が歌えるようになった。そして、そのほうがよほど表現が広くなることにも気づけた。 あとは単純に幸せの総量が圧倒的に増えた。 家族の喜びは俺の喜びなので、当然ひとりだった頃の総量とは比べものにならない。 自分や友人の子供たちが生きていく日本だと思うと、自然と政治にも興味が湧くようになった。若い頃のようにラップのことだけ考えている時間はなくなってしまったが、その分吸収する幅は広がったと感じる。 では、もしも俺がいまだに独身で自由を謳歌(おうか)していたとしたら、どうだったのだろうか。若い頃のままの感覚でやりたい放題ラップができているだろうか。 そうは思えない。 人気商売でもあるラッパーをしながらこの年まで独身でいるには、何かよほどの理由や信念でもなければ不可能だ。世間はそれを変人と呼び、そんな変人は40歳になる前に捕まるか死ぬかで、ラップを続けていないかもしれない。 俺が世間に見いだされた30代は、すでに妻子があった。その頃に独身で勝手気ままに活動していたら、同じように世に出られたかも怪しい。 結局、食うに困ってアルバイトなり会社員なりしていたのかもしれない。さすがに麻薬の売人はしないだろう。若い頃からその手の落とし穴への嗅覚は備わっていた。 しかし謙遜ではなく、社会人として大成できるタイプではない俺は、低賃金で使われ、出世もできずに年だけ取り、それでもラップにすがりついていたとしたら……なかなかに悲惨だ。 家庭は俺から一定の表現を奪ったが、同時に表現者として延命してくれてもいるのだ。 撮影/田中智久

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