「火炎瓶を投げたら、みんな死んでしまうのではないか」 成田空港開港の2カ月前に起きた「悪夢」の数時間

排水溝を進み管制塔へ――。開港直前の成田空港で起きた占拠事件は、警備の盲点を突き、管制官たちを屋上へ追い詰めた。元活動家と元管制官の証言で振り返る、あの日の「悪夢」とは。書籍『 成田空港秘話 』より、一部抜粋してお届けする。 * * * ■排水溝から進入し管制塔占拠 元活動家30年後の告白 開港の2カ月前、世界に衝撃を与える事件が起きた。もともとの開港予定日を4日後に控えた1978年3月26日、空港反対を訴える活動家が管制塔を占拠したのだ。 破壊された管制室には旗が翻り、ヘルメットの活動家たちが気勢をあげた。屋上へ逃げた管制官たちの頭上に報道ヘリコプターが飛び交う……。 国の威信をかけて約1万4千人を動員した警備陣の「敗北」だった。 事件の直後、当時首相だった福田赳夫は「残念だ」と語り、悔しさをにじませた。 この事件のため開港は5月末にずれ込んだ。 事件から30年。刑期を終えて社会復帰した元活動家や、屋上に脱出した元管制官(65)らが当時を語り始めた。 昨年(2007年)11月、東京都内の出版社の一室に、事件を計画・指導した和多田粂夫(66)、行動隊長だった前田道彦(55)、前田と管制塔に侵入した中川憲一(60)の3人が集まり、朝日新聞の取材に応じた。 事件前日の夜、前田ら襲撃部隊22人がサーチライトをかいくぐり、空港外のマンホールから排水溝に侵入した。排水溝は管制塔の近くまでつながっていた。 前田が排水溝に降りた直後、頭上でドスン、ドスンと足音が響き、「たいほー」と叫ぶ声が聞こえた。地上の仲間が機動隊に取り押さえられた。 マンホールのふたを閉めながら、前田は「失敗した」と思った。中川も「こんな狭く暗いところで戦闘になり、火炎瓶を投げたら、みんな死んでしまうのではないか」と不安を感じた。 機動隊の追跡に備えて50メートルごとに見張り役を置いた。前田は「中止も考え、実は他に脱出口があるか探したんだ。しかし管制塔近くのほかに見つからなかった。なぜか警察も来なかった」。警備陣は管制塔占拠を未然に防ぐ機会を逃した。 翌朝になって、前田は仲間に「作戦決行」を告げた。中川は「逮捕されると覚悟していた。それでもやるしかなかったんだ」と振り返った。 「成田空港建設。それは農民が国家に強制的に土地をむしり取られるという、子供でも分かるおかしな話だった」。前田は、そう語った。 一方、元管制官は事件当日の午前中、家族とともに千葉市内の教会にいた。キリスト教の復活祭の日だった。 その後、午後からの勤務のため、車で国道51号を成田にむかった。「開港への準備が山積していて、定時よりも早くタワーに上った」。それが運命の分かれ道だった。 前田ら十数人は、一人がようやく通り抜けられるような場所を何カ所も抜け、出口にたどりついた。フェンスを焼き切るために用意していたガスカッターは、重すぎて途中で捨てた。 午後1時すぎ。ヘルメットをかぶり、鉄パイプや火炎瓶で武装した活動家たちが狭い出口から次々と外に出た。目の前には高さ約60メートルの管制塔がそびえ立っていた。 管制塔の16階では、5人の管制官が通常通り勤務していた。彼らにとって「悪夢」となった数時間が始まった。 *書籍『成田空港秘話』(大和田武士) 激しい反対運動、成田闘争を経て1978年に開港した成田空港で今、「第2の開港プロジェクト」が進む。3本目の滑走路を新設、29年3月に供用開始し、発着回数を30万回から50万回に引き上げる。周辺地域には宇宙・航空、物流などの産業誘致も図る。開港前からの成田の歴史、何度も訪れた転機の舞台裏を関係者の秘話でたどる。 三里塚芝山連合空港反対同盟 1966年7月4日、成田市三里塚に新空港を建設することが閣議決定されたことを受け、同年8月22日、地元農家ら約1200戸が「農地死守」などを旗印に結成。運動方針の相違などから83年に北原派と熱田派に分裂し、さらに87年には北原派から小川派が分裂して3派になった。 成田空港の閣議決定と基本計画 1966年7月4日、「新東京国際空港の位置及び規模」が閣議決定。成田市三里塚に建設が決まった。同年12月12日に示された基本計画は、1065ヘクタール程度の敷地に約4千メートル(A)、約2500メートル(B)、横風用滑走路と諸施設の設置が盛り込まれた。おおむね70年度末までにA滑走路を、全工事の完成は73年度末を目途としていた。

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