この人にすべてを懸けよう、と北島三郎さんの門を叩いて5年の月日が過ぎました。本名の山本譲二として「そばにおいでよ」「北ものがたり」「男の影法師」と3枚のシングルを発売しました。そこそこ売れましたが、ヒットと呼べるまではいかない状態です。一方、松原のぶえが「おんなの出船」で日本レコード大賞新人賞を受賞。大橋純子は「たそがれマイ・ラブ」が大ヒット、NHK「紅白歌合戦」に出場するなど、後輩のプレッシャーが強まっていました。事務所の長男坊は、かなり肩身の狭い思いでした。 そんな自分の状況を見ていた北島のオヤジからある時、飯倉のマンションの一室に行くよう指示されました。五木寛之さんの「艶歌」や「海峡物語」という人気小説の主人公「艶歌の竜」こと高円寺竜三のモデルとされた、伝説的な音楽プロデューサー、馬渕玄三さんの自宅兼仕事場でした。何も分からず「北島事務所から来ました山本です」とあいさつすると、3人いた中で最も目がギョロッとした方が「三島、この子にあの歌を聴かせてあげなさい」と命じました。作曲家の三島大輔さんがピアノの弾き語りで♪ここで一緒に 死ねたらいいと…と歌い始めました。聴いたことがない、とんでもなく凄い歌でした。歌が終わると、興奮して「すいません。この曲を僕にください」と必死に土下座しました。 後で聞くと、本来は小林旭さん用に作られた作品だったそうです。しかしこの時、馬渕さんが「この子でいいんじゃない」と言ってくださり、自分の人生は大きく変わることになりました。何度か馬渕さん宅にレッスンにお邪魔しました。当初は「最後の女」というタイトルでした。しかしある時、生意気にも自分が「みちのくひとり旅、がいいですね」とふと漏らすと、馬渕さんは「じゃあ、それに変えよう」と言ってくれました。 北島のオヤジは、大野家の男5人女2人の7人きょうだいの長男です。四男の佶(よし)延(のぶ)さんが専務として事務所をまとめていました。この専務が音楽に強いこだわりがあって、レコード発売OKをなかなか出してくれません。アレンジを変えたり、レコーディングを10回以上した記憶があります。環状7号近くの住宅街にあった杉並スタジオに嫌というほど通いました。「譲二、歌と歌の間に言葉があるんだよ」と何度も指摘されました。あまりに何度も繰り返すので「もうオレの歌じゃないじゃん」と心の中でつぶやいたほどです。しかし今になって思えば、あそこまで情熱を持って作ったからヒットしたのだろうと、とても感謝しています。 まだ無名の歌手ですから、すぐには売れません。レコード会社の宣伝マンとマネジャーと3人で、全国の盛り場キャンペーンを続けました。名前を覚えてもらうため、飲み会後の別れ際に3人で下半身を露出するという、超下品で、今なら逮捕されるような過激な行動まで取りました。本当にバカでした。でも、それほど必死でした。 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。