バットを向けて近づいて来る…“赤鬼”ホーナーが1人のトラ番記者へ一直線「これからお前はトモダチだ」と笑った理由

◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 巨人の阿部慎之助監督(47)が長女(18)への暴行容疑で5月25日に現行犯逮捕され、翌26日に監督を辞任した。衝撃的な事件である。もう少し詳しく事実だけを並べてみよう。 25日夜、巨人の阿部前監督は東京都渋谷区の自宅で、18歳の娘(長女)に暴行を加えたとして午後7時10分、児童相談所からの110番通報を受けて自宅に駆け付けた警察官に暴行容疑で現行犯逮捕された。その後、阿部氏は容疑を認め釈放された。 調べによると阿部氏は長女と15歳の次女の姉妹げんかを止めようとして仲裁に入ったが、長女に反発され、カーッとなって胸倉をつかみ投げ飛ばすなどの暴行に及んだという。長女は暴行後に対話型AIの「chatGPT」に相談し、児童相談所に連絡することを勧められ、その児相から警察への通報で逮捕劇となった。 「児相の対応は?」「なぜ、現行犯逮捕なのか」「監督を辞任すべきだったのか」など、テレビや新聞、週刊誌などで今も論議が続いている。この「虎カルテ」の欄でもどう取り上げようか―と悩んでいた。そのとき「やめとけ」と川藤幸三前OB会長から声がかかった。 「それぞれの家には、他人には分からんいろんな事情があるんや。分かった顔をして人の家庭のことにクビを突っ込んだらアカン。やめとけ!」。その通りだと思った。 翌26日、巨人の監督を辞任して記者会見に臨んだ阿部氏は目から大粒の涙を幾筋も流し、鼻水をなめながら陳謝の言葉を述べた。その日、甲子園球場であった何人かのOBたちも、起こった事件のことよりも《阿部氏の涙》に同じ娘を持つ父親の切なさを感じていた。 「あの涙の意味は何やと思う? 後悔、自責の念…。いや、ボクは娘への《愛》を感じたな。誰が憎くて自分の娘に手を上げる? 可愛さ余って…。私も2人の娘がいるが、あの年頃の娘は難しいんだよ。父と娘の関係は複雑なんだ」 「そうそう、ウチも娘が2人に息子が1人。いまはみんな成人しているが、中学生、高校生の頃は『お父さんのあとにお風呂に入るのはイヤ』と言われたし、口もきいてもらえない時期があった。でも、それが大人になるための通過点―と女房に言われて納得した。反抗期が長ければ長いほど親思いの娘になる―って」 「娘さんも堪えたと思うよ。読まれた手紙の中で『父が逮捕され連行される姿に泣き崩れました』とあったが、強かったお父さんが肩を落とし、弱々しく連れていかれる姿を見たとき、初めて自分のとった行動の大きさに気づいたじゃないかな。《行動には責任が伴う》ことを学んだと思う」 「娘さんもお父さんが泣いているところなんか、見たことなかったでしょう。心の底から『ごめんなさい』と思っているはず。阿部君の涙もそれが分っての嬉し涙だと思う。いや、そう思いたいね」 阿部騒動に関してはこれで終わりにしようと思う。その26日の新聞に《衝撃的な》訃報記事をみつけた。1987年、ヤクルトで活躍した「赤鬼」ことボブ・ホーナー氏が68歳で死去した―と米大リーグのブレーブスが発表した。 ホーナーはそれまで来日した外国人選手とは《格》が違った。前年までメジャーリーグの4番を打っていたバリバリの主砲、本物のメジャーリーガー。だから87年5月に来日したときには「黒船来航」とまでいわれた。なんでそんな超大物選手が日本に来たのか。 実は86年オフにホーナー選手は「FA権」を行使した。だが、年俸高騰により各球団のオーナーたちが結託し、FA選手を締め出したことでどこの球団とも契約が出来ず、日本のプロ野球ヤクルトと3億円の契約を結んで来日したのである。背番号はシーズン50本塁打の期待を込めて「50」。 5月5日、観衆5万2000人。超満員となった神宮球場でのヤクルト―阪神4回戦がデビュー戦。当時、トラ番記者だった筆者も興奮の神宮球場にいた。打席でドシッとバットを構えたら少々のボールなど見向きもしない。投手をにらみ据えたまま微動だにしない。そしてバットを振った―かと思うと、快音を発してボールがスタンドに消えていく。ウソのような本当のお話。 5日の試合、5回の第3打席で2番手・仲田幸司の初球、外角低めの速球を右翼ポール際へ1号2ランを放つと、翌6日の5回戦では阪神の先発・池田親興から3ホーマー。1回にスライダーを右翼へ第2号。5回にはストレートを左中間スタンドに放り込み、7回の第4打席では外角高めのストレートをバックスクリーン中央へ叩き込んだ。 なんと2試合で6打数5安打4ホーマー、5打点、2四球…。何やってるんや! 翌日の朝、怒りの筆者は選手宿舎で池田投手を問い詰めた。 「事前にミーティングせえへんかったんか?」 「ちゃんとしましたよ。みんな集まってスコアラーからホーナーの攻め方を聞きました」 「それやのに、なんで3本も4本も打たれるねん?」 スコアラーの説明はこうだ。まず、1球目は外角のボールで様子をみる。2球目は思いきって内角へのけ反らすようなボールを投げる。3球目は対角線の攻めで外角低めへボールを。4球目、今度は対角線ではなく、もう1球、外角低めへボールを。そして次に―。ここで「あのう…」と池田が手を上げた。 「あの、もうフォアボールなんですけど?」 要するに「歩かせるしか手はない」という結論だったという。これもウソのような本当のお話。 その日、筆者はいつもより早く神宮球場へ行き、ホーナーの打撃練習を見ようと、ヤクルト担当記者に交じって一塁側ベンチの端に立っていた。打撃練習を終えたホーナーがバットを持ってベンチに戻ってくる。その時、なぜかホーナーと目が合った。するとバットの先をこちらに向けてホーナーが何かわめきながら近づいて来るではないか。 トラ番記者というのがバレた? そんなアホな。アカン「赤鬼」にやられる! そこへ通訳が飛んできた。 「あのう、ホーナーがそのポロシャツはどこで手に入れた?と聞いてます」 「えっ、ポロシャツ?」 その時、筆者は胸にえんじ色のデビルマークの入った鮮やかな緋色(ひいろ)のポロシャツを着ていた。買ったのは1982年に阪神が米国・アリゾナ州テンピでスプリングキャンプを張ったとき。選手宿舎近くのアリゾナ州立大学の生協で購入したものだ。 それを説明するとホーナーの顔が一変、笑顔になった。実はアリゾナ州立大学はホーナーの母校。そしてポロシャツの胸にあったマークは「サンデビル」(SunDevils)といってアリゾナ州立大のスポーツ競技チームの「スパーキー」というマスコットだったのだ。 「日本でスパーキーに会えるとは思ってもみなかった。これからお前はトモダチだ」 なんと握手まで交わした。このときは随分年上に思えたホーナーだったが…。68歳での死去。2歳も年下だった。死因は公表されていない。改めてトモダチの冥福を祈りたい。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の70歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。

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