NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』、第5週は「人生は喜ばせごっこ」が放送中だ。女子師範学校に入学した朝田のぶ(演:今田美桜)だが、教師である黒井雪子(演:瀧内公美)の指導や寮生活の厳しさに圧倒される。一方、医者になる自分を想像できない嵩(演:北村匠海)は、弟・千尋(演:中沢元紀)から本心ではどうしたいのかを問いかけられた。さて、ここで千尋が新聞に取り上げられた「共亜事件」に言及する。史実ではこれの元になっている「帝人事件」というものがあった。今回はその帝人事件について簡潔にまとめてご紹介する。 ■朝ドラ『虎に翼』でも登場した、戦前の政財界を揺るがす大事件 はじめに、ここに仕込まれた“朝ドラネタ”に触れておこう。2024年度前期『虎に翼』では、主人公・猪爪寅子(演:伊藤沙莉)の父である猪爪直言(演:岡部たかし)が「共亜事件」に巻き込まれ、贈賄の疑いで逮捕された。本作ではこれを元に、「共亜事件」を千尋に言及させたのである。同時代を描く朝ドラならではの演出だった。なお、猪爪寅子のモデルである三淵嘉子さんの父・武藤貞雄さんは台湾銀行での勤務経験はあるものの、「帝人事件」には関与していない。 さて、モデルとなった事件「帝人事件」が起きたのは、昭和9年(1934)のこと。台湾銀行と帝国人造絹絲株式会社(略して「帝人」)を巡る政治が絡んだ大規模な贈収賄事件である。政財界の重鎮、そして当時の斎藤内閣の大臣らの逮捕・起訴は日本を揺るがす大事件に発展した 帝人は元々国内有数の総合商社「鈴木商店」の系列だったが、昭和金融恐慌で昭和2年(1927)に鈴木商店が倒産した後、その株式22万株が台湾銀行の担保となった。ちなみに鈴木商店は大正4年(1915)時点で当時の国家予算の2倍以上となる15億4,000万円もの貿易年商額を叩き出し、大正6年(1917)には当時の日本の国民総生産の1割を売り上げるという一大商社だった。これが倒れるほどの経済危機を日本は迎えていた。 さて、帝人の業績は良く株価も上がっていたため、台湾銀行に担保された22万株にはかなりの価値があった。この株を巡って、政財界を巻き込んだ大事件が幕を開けるのである。 元々鈴木商店を「大番頭」として取り仕切っていた実業家・金子直吉は、株を買い戻したいと願って政財界の人間に近づく。そのなかには時の文部大臣・鳩山一郎もいた。裏工作は上手くいき、金子は半数の11万株を買い戻すことに成功。その後帝人が増資を決めたことで株価も大きく値上がりした。 そしてこれが帝人株にまつわる贈収賄疑惑として取り沙汰されることになった。帝人の社長や台湾銀行頭取、実業家・政治家グループ「番町会」のメンバー、大蔵省の次官、銀行局長、商工大臣、鉄道大臣に至るまで16人が起訴されている。 被告人らは一貫して無罪を主張し続け、議会でも検察当局による“人権の蹂躙疑惑”が度々取り上げられたが、その後も裁判は長引いた。昭和12年(1937)12月22日、被告人16人の無罪判決が言い渡されるまで、じつに266回に及ぶ公判を経ている。被告人当人らはもちろん、その家族や親族にとっても長く苦しい日々だったことは言うまでもない。 起訴された16人は無罪放免となったものの、事件はもちろんハッピーエンドではない。この事件によって政府批判を受けた斎藤内閣は総辞職。五・一五事件で殺害された犬養毅首相の後を引き継いだ斎藤実は「英語が堪能で、国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格や強靭な体力を持つとともに慎重さも兼ね備えている」と評価され、五・一五事件や満州事変などで揺れ動く日本をどうにかまとめることが期待されていたが、帝人事件の2年後、昭和11年(1936)に起きた二・二六事件で暗殺されている。 この帝人事件が当時の日本の政治不信を高め、より強いリーダーを求めて軍国主義国家へと近づく要因のひとつになったことは否めない。事件に関しては今なお全容が明らかになったとは言えず、戦前の日本の混沌を象徴するような事件として現在も語り継がれている。