娘を奪った危険運転 「過失」覆した父の思い、警察官の卵に訴え

何の変哲もない3月の夜。父親は娘と青信号の横断歩道を渡っていた。娘がすれ違う自転車とぶつからないよう注意した次の瞬間、赤信号を無視した猛スピードの車がブレーキをかけることなく突っ込んできた。それからの記憶はほとんど残っていない。集中治療室で目を覚ましたとき、最愛の娘は既に亡くなっていた。運転手は現行犯逮捕されたが、事故は当初、危険運転でなく「過失」によるものと判断された――。 事故から5年。父親は今なお、後を絶たない悪質な危険運転との闘いを続けている。 ◇妻からは「一緒に死のう」と 事故に遭ったのは波多野暁生さん(47)。東京都葛飾区で2020年3月、元配送業の男性の乗用車にはねられて長女の耀子さん(当時11歳)を失い、自身も全治約7カ月の重傷を負った。奈良県警察学校で10日、同校初任科生や交通捜査に携わる警察官らに講演会を開いた。 暁生さんが耀子さんの死を知ったのは手術を終え、麻酔から目が覚めた後のことだった。医師や看護師に真っ先に容体を尋ねたが、答えは返ってこない。しびれを切らし、病院にかけつけた妻や両親を怒鳴りつけた。ようやく聞き出せたのは、最悪の結果だった。「(耀子さんが)重傷を負っているくらいのことは覚悟していた。でも、まさか亡くなるとは……」。妻からは「一緒に死のう」と言われた。返す言葉が見つからなかった。 ◇怒りから調べた法律と捜査の壁 事故から1週間後に車椅子で葬儀に参列し、現実のことなのだとようやく理解できた。同時に、運転手に対する許しがたい怒りも覚えた。「敵討ちが許されないなら、最大限の処罰を望む以外にできることはない」。警察や検察からの聴取に備え、当時の状況や危険運転致死傷罪が適用される条件を調べた。 運転手は赤信号を無視した理由について、「車線変更で割り込むのが苦手なので、右車線の車が止まっているうちに通り抜けようと思った」と供述していた。自動車運転処罰法は危険運転の条件として「赤信号を殊更に無視する行為」を定めている。「これは過失による事故ではない。故意によって引き起こされたものだ」。暁生さんはそう確信した。 だが、捜査機関の反応は冷たかった。初動捜査にあたった警視庁葛飾署は「本当によくやってくれた」が、「危険運転での立件は無理だろう」という雰囲気が署内に満ちていた。担当検事は当初から過失での起訴を前提に聴取を進め、危険運転が成立する条件を誤認。必死に訴える妻に対して「我々が職務怠慢だと言いたいのか」とすら言い放った。「私と妻はどれだけ大きなものを失ったのか。すさまじく理不尽な現実を、軽んじられている気がした」 ◇99%以上の捜査に疑義 転機となったのは、担当検事の異動だった。新たに着任した検事は自ら現場に赴き、警察に再捜査を指示。支援を依頼した弁護士と法的な議論もかみ合った。暁生さんと妻も弁護士に意見書を提出してもらうなどして「援護射撃」した結果、運転手は事件から1年後の21年3月に危険運転致死傷罪で起訴された。22年には懲役6年6月の実刑判決を受け、確定した。「私と妻が必死に働きかけなければ、間違いなく過失のまま終わっていた。まるでばくちをしているような気分だった」と振り返る。 危険運転致死傷罪は成立から約25年がたつが、実際に適用されるケースは極めて少ない。犯罪白書によると、23年に交通犯罪として処罰された約30万件の事故のうち、同罪が適用されたのはわずか700件ほどにとどまる。99%以上が過失として処理されている現状について、暁生さんは「捜査機関が『過失ありき』の消極的な姿勢で捜査していることが大きい」と指摘する。 そもそも、同罪は犯罪が成立する構成要件があいまいで厳しく、立件のハードルが高いとされる。ならば法律を変えてでも現実を変えようと、暁生さんは自ら動き始めた。 ◇「法律に魂を」 大分市の県道で21年、時速194キロの車にはねられた会社員の男性が死亡した事故では、危険運転致死罪の適用を求める署名活動に参加。自民党の交通安全議連総会や法務省の有識者検討会にも参加し、今年3月からは法制審議会の委員として活動している。「法律が『絵に描いた餅』になってしまえば、その悔しさを抱えて一生苦しみ続けるのは遺族。そうした状況は絶対に変えなければならない」と力を込める。 今回の講演会に参加したのはこれからの交通捜査を担う「警察官の卵」たち。実務経験のない彼らに対し、最後にこう語りかけた。 「魂の実務がなければ、法律はただのお飾りになってしまう。適切な捜査を通じて、法律に魂を入れてほしい。その魂のもとは、悪質な運転で突然命を断ちきられた全ての人たちの魂だ。そのことをどうか、忘れないでください」【田辺泰裕】

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