この病中、三浦を見舞った青年がいた。平田進(九章参照)である。この平田に三浦は「マンテイガとケイジョを食べたい」と言った。 平田は数日、そのブラジル産バターとチーズをアチコチ探した。東山のブラジル総支配人だった君塚慎の家で見つけ、力行会へ持参すると、永田が出てきて、こう言った。 「一昨日、亡くなりました」 筆者は、これも四章で記したが、一九六〇年代、力行会に通ったことがある。敷地内に木造の校舎の様な建物があり「あそこに、昔、三浦という有名な人が暮らしていた。大変な反骨精神の持ち主だった」と誰かから聞いたことがある。 戦後、三浦が日本で戦時中に書いた戦争批判の遺稿がパウリスタ新聞に掲載された。次の様な内容だった。 「日本は、いつも米国の物量を計算するのに、日本の尺度を以てするから誤算ばかりしている。恰も、貧乏人が金持の台所の胸算用をする様なものだ。 考えが総てケチだから、敵の物量の威力がハッキリ呑みこめない。 米国はたとえこの戦争が長期戦になっても、少なくとも物量の上から見通しをつけるからよいが、日本は見通しがつかない。 まあやれる所までやって見ろと言った風だ。 日支事変ですら出鱈目で、始め地方的解決、いつの間にかズルズルベッタリ全面的に拡がってしまった。 日独伊三国同盟も、日本は決して主導的ではなく、引きずり込まれたことは明らかである」 後世の人間から見れば、至極もっともな内容であるが、当時の国論とは逆であった。その筋の手に入れば、逮捕は免れない。それを承知で、真実を正確に把握、冷静に文字にしていたことになる。 なお、パウリスタ新聞は、三浦が全盛時代をつくった日伯新聞の残党によって終戦後、創刊された。 十二章 大騒乱 (Ⅱ) 状況誤認の連鎖によって、戦勝派と敗戦派の関係悪化が緊迫の度を増す中、年が変わって一九四六年、正月。 前章で名の出たパウリスタ延長戦地方のツッパンで一つの事件が起こった。これが、連続襲撃事件を惹き起すことになる。 が、それは、最初はごく些細なことから始まった。郊外にクインという邦人の植民地があって、その住民の纐纈(こうけつ)家で、日本風に日の丸を掲揚した。 軽い気持ちで、そうしたようだ。敵性国の国旗の掲揚は禁じられていたが、戦争も終わったことであり…と楽観的に考えたのであろう。 これが、ごく些細なことである。 ただ、夜、家人がその日の丸をしまい忘れた。それを近くに住むカマラーダが盗んで、翌日、町の警察署(州警兵)に持ち込んだ。 三日、エドゥムンドという下士官が率いる警兵数名が植民地に来て、数軒の家宅捜索をした。 警兵たちは捜索中、家人に暴行を働き、それは婦女子にまで及んだ。 さらに住民六人を連行した。その際、車代だと言って六〇〇クルゼイロをまきあげた。 同日夕方、ツッパンの市街地にある署の前で、エドゥムンドが日の丸で皮長靴の泥をこれ見よがしに拭っているのを邦人の一鮮魚商が見かけた。 この一事の重大性は、現代人には、到底、理解できないであろう。 国旗というものが犯しがたい神聖さを帯びていた時代である。しかも警官が、そういうことをしたとあっては! 鮮魚商は憤慨して、近くに居た邦人に知らせた。 それを聞いた松本勇ら九人が、詰問するつもりで署に行った。が、エドゥムンドは居なかった。 九人の内の二人が、彼の居場所に心当たりがあったので、探しに出かけた。残る七人が路上に居ったところを、突如現れた多数の警兵に包囲・拘引され留置場に入れられた。 七人の一人坂根英一が武器(小刀)を所持していたという理由による。 なお、彼らは臣道連盟ツッパン支部に属していた。その中には、本稿ではすでに度々登場の日高徳一もいた。 以下は、後述する日高に最初に会った時に聴いた話である。 「当時、私は連盟の青年部員であった。あの日は夜学があって、本を手にしていたことを覚えている。 我々七人が留置された時には、前の通路を挟んで向かい側の部屋に、クインの人たちが入って居られた。全員殴られたり蹴られたりした跡がアザだらけになっており、酷いものでした」 無論、殴る蹴るはエドゥムンドたちの仕業であった。