「フェアレディZの父」こそ社長に相応しかった! ゴーンすら染まった日産の「負の連鎖」とは

2025年7月15日、日産のイバン・エスピノーサ社長兼最高経営責任者(CEO)は記者会見で、神奈川県内にある追浜工場(横須賀市)と日産車体湘南工場(平塚市)の2拠点を、それぞれ2026年度末と2027年度末までに閉鎖すると発表しました。 現在の日産不振は、同社の屋台骨を支えている中国市場と北米市場、この2大市場で販売不振に陥っていることが原因です。前者は経済が失速し、かつ民族資本のEVが台頭したことで日産車の販売が落ち込んでいます。一方、後者は乗用車に用いられるCVTと、SUVやピックアップトラック用のリアデファレンシャルの設計、双方に不具合があり、消費者から集団訴訟を起こされるなどして人気が低迷し、販売台数が急減しています。 加えて、現在の日産には他メーカーがラインナップしているハイブリッド車やPHEV車がないことも、顧客を遠ざけている要因といわれています。 ただ、振り返ると日産は過去にもたびたび経営危機に陥っており、その都度、工場閉鎖や人員削減などのリストラを繰り返してきました。なぜ、日産は経営危機を何度も繰り返すのでしょうか。 その背景には、経営陣のなかに独裁と腐敗が生まれやすい官僚主義的な体質があることが挙げられるでしょう。 キッカケとして挙げられるのが、1957年に8代目社長に就任した川俣克二氏(のちの初代日産会長)です。彼は労組トップの塩路一郎氏と癒着して歪な経営体制を容認し、塩路氏が立場を超えて経営や人事に不適切な介入を繰り返したことだと言われています。 1977年に川俣氏は石原俊氏を10代目社長に取り立てたものの、石原氏の拡大政策に塩路氏が猛反発し、これに会長の川俣氏が同調したことで社内は大混乱。その結果、日産の経営は大きく傾きました。 その後も「日産社内相争い、余力を持って自動車を売る」という状況が続き、同社は次第に消耗していったのです。その結果、1999年に倒産一歩手前へと追い詰められ、危機を救う救世主としてルノーからカルロス・ゴーン氏が来たのは記憶に新しいところでしょう。 ところが、彼もいつのまにか日産の悪しき社風に染まり切り、その末路は金融商品取引法違反と特別背任容疑による逮捕、最終的にはスパイ映画さながらの逃亡劇を引き起こしています。

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