80年前の光復(解放)は多くの殉国烈士の犠牲によって現実になった。この中には金九(キム・グ)や安重根(アン・ジュングン)のようには広く知られず、見えないところで粘り強く日帝に抵抗してきた隠れた独立活動家が多いが、その大半は記録もまともに残っていない。中央日報は光復80周年を迎え、独立記念館傘下の「独立活動家資料発掘TFチーム」が見つけ出した「忘れられた独立英雄」の痕跡を照明した。2018年に発足したTFチームが今まで発掘した独立活動家は計3595人。存在さえも知られていなかった英雄を共に記憶することで完全な光を取り戻す道にたどってみる。 太平洋戦争で敗色が濃厚となり、各種の収奪と強制動員など日帝の悪行がピークに達した1940年代初期。強制徴用された朝鮮人を乗せて日本の軍需工場へ向かう列車の中で、ある青年が突然立ち上がって100人を超える人々に向かって自己紹介した。 「私は朝鮮独立運動の前歴があります。入所した後はみんなのために働きますので安心してください」。 独立運動の「前科」を朝鮮語で堂々と明らかにし、朝鮮人の同僚を安心させた彼はソウル都染洞(ドリョムドン)出身の朴容鎮(パク・ヨンジン、1923年10月生まれ)だった。日帝時代に「内地」と呼ばれた日本の地は朝鮮人には死の空間だった。不法強制動員令で徴用された朝鮮人は過酷な環境で強制労働に苦しみ、現地で命を失ったり病気になって帰って来たりする人が大半だった。お金があっても家柄が良くても「人があまり死なないところ」に送られる程度であり、徴用自体を避けるのは難しかった。 朴容鎮が満21歳だった1944年10月に入所した広島三菱造船所軍需工場も悪名高い徴用地だった。しかし朴容鎮はこうした死地に行ったことをもう一つの独立運動の機会にした。 日帝の記録によると、朴容鎮は「工場内の朝鮮人の職種決定時に希望を反映してほしい」「私たちは食料不足で休業しなければいけない」として怠業と欠勤闘争など不服従運動を主導した。日本人監督者らが聞き取れない朝鮮語を時々叫んだが、「内地人(日本人)と私たちを差別している」「ここは監獄と変わらない」などの言葉だった。日帝が「扇動的」と記録した朴容鎮の言動は異国の地で労役をする朝鮮人の自尊心に響き、士気を高めた。 当然、朴容鎮は日帝には不安感を招く存在だった。特に朴容鎮はわずか1年前に独立運動で懲役刑まで受けていたため監視対象になっていた。朴容鎮は1943年4月、京城地裁で治安維持法違反(独立運動)で懲役1年6カ月、執行猶予3年を言い渡された。日帝内務省傘下「朝鮮人治安維持法違反者検挙組」が作成した報告書によると、朴容鎮は中学校在学中に教師の影響で「民族の独立が必然的に可能という考えに到達」することになった。 特に興味深いのは朴容鎮の入所目的を日帝が疑った点だ。「上の者は徴用を受けた時、朝鮮独立運動の前歴が発見され、軍管理工場への就職を阻止しようとすると、転向していることを強調し…入所を渇望して結局、目的を達成した」という部分だ。 日帝の前では皇国臣民に生まれ変わったように装った後、徴用朝鮮人を率いて積極的に不服従運動をした点からみて、朴容鎮は避けられない徴用を日帝軍需生産の心臓部に「潜入」する機会として活用したとみられる。執行猶予期間にまた捕まれば重刑を免れないことを知りながらも、自ら死地に飛び込む危険を犯した背景が見える。 実際、日帝は朴容鎮について「300人の朝鮮人と共に徴用に応じて入所した者だが、同僚の先頭に立って信望を得ていて、その動向を注意中」「指導者的不純分子として活躍」「朝鮮独立の目的達成は日本を敗戦させることで実現するとして」などと表現している。 朴容鎮はその後、広島の工場で独立運動のための秘密結社団体組織を作ろうとし、1945年2月に日帝に検挙された。裁判中の同年8・15に解放を迎えた。 朴容鎮の活動状況は独立記念館傘下の「独立活動家資料発掘TFチーム」により昨年確認された。TFチームが発掘資料として活用した日帝の記録に創氏改名した名前「松本容鎮」を使う人物が数回登場したのが手がかりになった。TFチームは松本容鎮の存在を確認するため彼の本籍地のソウル鍾路区都染洞の除籍謄本などを追跡した結果、朴容鎮と同一人物であることが確認された。