〈8月は日本最大の暴力団・六代目山口組にとって特別な月だ。’15年8月27日、「山口組分裂抗争」の口火が切られた。血で血を洗う戦いは異例の長期戦となり、10年の月日が流れた。『山口組分裂の真相』などの著書があるノンフィクション作家・尾島正洋氏が、節目を前に血塗られた歴史を紐解く〉 国内最大の暴力団・六代目山口組が’15年8月27日に分裂して、今夏で10年となった。 離脱した一部のグループが結成した「神戸山口組」との間の抗争は異例の長期にわたっている。直接的な抗争事件や、双方の間での引き抜きや移籍を巡るトラブルなども含めてこれまでに数十人が死亡した。分裂時の構成員は六代目山口組が約6000人、神戸山口組は約2800人と勢力差はほぼ2対1だったが、当初は神戸山口組への加入者が多く、勢いがあった。 しかし、神戸山口組幹部が射殺されるなどの凶悪事件が六代目山口組系組員によって次々と引き起こされたことで、ほぼ雌雄は決した。’24年末時点での最新データでは六代目山口組は約3000人に対して、神戸山口組は約120人へと減少している。ただ警察当局は抗争の再燃を懸念し警戒を続けている。 渡世を騒がせた分裂抗争の発生から丸10年の節目に、改めてその血塗られた歴史を振り返りたい。 ◆「異例」続きだった六代目山口組の船出 六代目山口組は’05年、組長は司忍(83)、ナンバー2である若頭は髙山清司(77)といった体制で発足した。いずれも傘下の中核組織で名古屋市に拠点を構える弘道会出身だ。これまでの山口組は権力の集中を排するようバランスを取るため、組長と若頭は傘下の別の組織から就任させてきた。五代目体制では組長の渡辺芳則は山健組出身、若頭の宅見勝は自ら結成した宅見組出身だった。しかし、六代目体制はツートップを独占しており、これまでの慣習と比較すると異例だった。 六代目山口組を離脱し神戸山口組を結成したのは、五代目体制当時のトップを輩出した山健組、ナンバー2を輩出した宅見組をはじめ、池田組、俠友会、正木組など13組織だった。いずれも六代目体制の執行部を担っていたこともあっただけに、暴力団社会だけでなく組織犯罪対策を担当していた警察当局の捜査幹部をも驚かせた。警察当局の捜査幹部が分裂の要因を指摘する。 「分裂の主な原因として強権的な組織運営とカネの問題があった。直系組長である直参は毎月100万円前後の上納金の負担がある。このほかに盆暮れ、司の誕生月の1月には直参が連帯して5000万円、1億円といったイレギュラーな徴収がなされていた。このほかに、(弘道会系組織から)ミネラルウォーターや米などの日用雑貨の購入も押し付けられていた。そのうえ、シノギ(資金獲得活動)では弘道会が優先された。いくつもの不満があったのは事実だ」 そのうえで、捜査幹部は「髙山が社会不在だったことも、神戸(山口組)の決断を後押ししたはずだ」とも強調する。若頭の髙山は六代目山口組内だけでなく暴力団社会全体に対しても大きな影響力があり、カリスマ的な存在だが、分裂当時は刑務所に服役していた。捜査幹部の指摘は、服役中の間隙を突いての離脱劇だったということだった。ただ、後になって髙山の出所が抗争の行方を大きく左右することになる。 ◆自動小銃で蜂の巣に 分裂当初は派手な抗争事件の発生はなく、双方ともにらみ合いのような状態が続いた。しかし、’16年2月、福井県の神戸山口組正木組事務所(当時)への発砲事件発生から、堰を切ったような状態となる。連日のように全国各地で、事務所への発砲や火炎瓶の投げ込み、大型ダンプのバックでの突入、繁華街での乱闘などが続発、制御不能な状態となった。警察当局は押さえ込みを図ったが、とどまることはなかった。 偶発的、突発的な事件が全国に広がるなか、事前に周到に準備された計画性の高い本格的な事件が発生する。同年5月、神戸山口組池田組(当時)の若頭・高木昇が射殺されたのだった。逮捕されたのは六代目山口組弘道会系組員だった。高木は迎えの車を待っていた際に銃撃されており、日々の行動パターンを調べたうえで実行されていた。これまでの一連の抗争事件とは異なり、異質さが際立った。 その後も六代目山口組側からの襲撃事件が相次ぐなか、多くの警察当局の捜査幹部たちが、「抗争の潮目を大きく変える出来事だった」と指摘する出来事があった。’19年10月に恐喝事件の刑期を終えた髙山が出所したのだ。髙山の出所に合わせ、戦国武将が戦場で一番槍を競うように、六代目山口組は抗争の動きを活発化させた。 同月の出所直前、神戸市内の神戸山口組山健組(当時)の事務所近くで、同組系組員2人が同時に射殺された。この事件で逮捕されたのは六代目山口組弘道会系幹部だった。出所後の同年11月には尼崎市で、六代目山口組竹中組の元組員が、米軍が公式採用している殺傷力が高い「M16」という自動小銃を乱射して神戸山口組最高幹部の古川恵一を殺害した。古川の遺体は蜂の巣のような状態となるほどの残忍さだった。六代目山口組は手を緩めることはなかった。 先を争うように六代目山口組が事件を引き起こすのとは対照的に、神戸山口組からは離脱する組織が相次ぐようになった。’19年時点での双方の構成員を比較すると六代目山口組は約4100人、神戸山口組は約1500人となっていた。 資金力が豊富なことで知られた神戸山口組池田組が’20年7月、組織を離脱することを表明。さらに、神戸山口組組長・井上邦雄(77)の出身母体で中核組織の山健組も同年8月に脱退。有力組織であった正木組は同月、解散した。’22年8月に俠友会が、翌9月には宅見組もそれぞれ脱退した。神戸山口組は四分五裂の状態となった。同年時点での双方の構成員数は六代目山口組が約3800人。対して、神戸山口組は主力組織が脱退したこともあり約330人へと大きく組織が縮小していた。以後、神戸山口組の活動は低迷していく。 多くの傘下組織が離脱した理由について、前出とは別の警察当局の捜査幹部は、「神戸(山口組)の井上が返し(報復)を許さなかった。その理由は分からない。返しをしなければ疑問視される。そこで(傘下組織が)離れていったのだろう」と推し測る。 六代目山口組、神戸山口組の抗争状態の解消に向けて全国各地の暴力団組織の代表者らが仲裁に動いた。しかし、神戸山口組組長の井上はいずれについても対応しなかった。こうした状況を経て六代目山口組は今年4月、最高幹部複数人が兵庫県警を訪れ、一方的に抗争の終結を宣言した。 ◆今年8月には最高幹部の新人事が発表 同時期に抗争の陣頭指揮をとってきた髙山は相談役に就任。後任の若頭には、若頭補佐で弘道会会長の竹内照明(65)が就いた。髙山は執行部から事実上、退任した。さらに8月には最高幹部である本部長を巡る人事も発表された。六代目山口組としては、一方的に抗争終結を宣言し、新人事を進めるなど着々と「竹内七代目体制」発足への布石を打っている。一方で神戸山口組は不気味な沈黙を続けたままだ。 長年にわたる抗争を踏まえて、六代目山口組系の幹部はこう感想を漏らす。 「分裂となればその場からケンカになるのは明らかなこと。それなのに神戸(山口組)からの返し(報復)はほとんどなく、多くの組織が離れ、少なからぬ人が死んだ。何のために分裂させたのか分からない」 この10年の間に流れた多くの血に、本当に意味はあったのだろうか。当事者たちもまた、その意味を見出せずにいるのかもしれない。(敬称略) 取材・文:尾島正洋