【多事蹴論101】サッカー界の“神の子”を入国拒否した日本への報復とは――。1994年米国W杯前の5月、日本代表は国際親善大会「キリンカップ」でアルゼンチン代表と対戦することになった。W杯優勝経験もある大国と対戦できる貴重な機会になるとみられていた中、日本の法務省はコカイン使用歴のあるスーパースター、同国代表エースのFWディエゴ・マラドーナの入国を認めない方針を決めたことで世界中に大きな波紋が広がった。 この当時、マラドーナはイタリア1部ナポリ時代の麻薬使用などによる長期出場停止が明け、スペイン1部セビリアからアルゼンチン1部ニューウェルズに移籍して、プレーを再開した。93年2月に米国W杯南米予選で低迷していたアルゼンチン代表にも復帰を果たしオーストラリアとの大陸間プレーオフで活躍。本戦キップの獲得に貢献するなど、世界は再び“神の子”マラドーナに注目し始めた。 そんな中、日本はアルゼンチンとの対戦を計画し、マラドーナも参戦する予定だった。しかし法務省の決定によりスター選手の査証が発給されなかった。マラドーナの日本マネジメント権を持つ青山エンタープライズは「日本サッカー協会の認識が甘かったのでは」とし「やり方が正攻法すぎはしなかったか。我々は(薬物逮捕歴のあるメンバーのいる)ローリング・ストーンズが来日したときは事前に法務省に何十回も足を運んでお願いした」と指摘していた。 マラドーナは南米各国はもちろん、オーストラリアやW杯開催国の米国入りも認められていた。それだけに、アルゼンチン代表は母国の英雄を認めなかったことに態度を硬化。日本はマラドーナ抜きでの来日を要請したものの、対戦はキャンセルとなった。国際的な信用を失う中、日本は2002年W杯招致への影響も懸念。小倉純二専務理事は「世界の流れに逆行していると、アンチ日本派の攻撃材料に利用される恐れが出てきた」と語っていた。 日本サッカー界は大きなダメージを負うことになったが、それだけにはとどまらなかった。日本への入国拒否が判明した翌日、在アルゼンチンの日本大使館で爆弾がさく裂した。首都ブエノスアイレスの中心街にあるビルの10階にある大使館前のホールに催涙ガス弾が仕掛けられ、爆発。警察当局はファンによる“報復”との見方を強めていた。大使館は開いておらず、職員らにケガはなかったが、ビルで働いている従業員2人がガス中毒で入院したという。 日本サッカー協会は大使館が襲撃されるという事態を重視し、急きょアルゼンチン協会に幹部を派遣。この対応に同協会フリオ・グロンドーナ会長は態度を軟化させて和解に成功した。またマラドーナは02年日韓W杯に「政府高官特使」の肩書を得て来日を果たした。 (敬称略)