描かれてから100年近く個人コレクターが所有していたルネ・マグリットの絵画が、10月24日にサザビーズ・パリで開催されるオークション「Surrealism and Its Legacy(シュルレアリスムとその遺産)」の目玉作品として初出品される。《La Magie Noire(黒魔術)》(1934)と題されたこの作品には、700万ユーロ(約12億3200万円)の予想最高落札価格が付けられている。 「マグリットの最も伝説的な作品のひとつ」とサザビーズが評すこの作品は、第二次世界大戦中に活躍したレジスタンスの英雄、スザンヌ・スパークの一族が所有してきた。スパーク一家は1930年代からマグリットのパトロンとして経済的に支援しており、その縁で1934年、スザンヌの妹アリス・ロルジュがマグリット本人から直接この作品を購入した。 サザビーズ・フランスの副社長を務めるトマ・ボンパールは、《La Magie Noire》が同社オークションに初出品されることについて、US版ARTnewsにこう語った。 「マグリットが描いて以来、同一のコレクターが管理・所有してきたシュルレアリスムを象徴する作品と対面できるのは極めて特別なことと言えるでしょう。1950年代以降、コレクターたちは何世代にもわたってマグリット作品を自らのコレクションに加えてきましたが、記念碑的な本作を所有できる日が訪れるとは夢見ることすらできなかったのですから」 この油彩画のモデルとなったのは、マグリットの妻であるジョルジェット・ベルジェ。彫像のように描かれた彼女の肩には白い鳩が止まり、右手は岩の上に添えられている。室内の向こうには海が広がり、彼女の上半身はその風景と融合している。女性の肉体を空や岩といった自然の要素と融合させる肖像画をマグリットは10点描いており、本作はその1作目だとサザビーズは説明する。フランスの作家で詩人のアンドレ・ブルトンに宛てた手紙のなかで彼は、「女性の肉体を空に変えることは黒魔術の行為だ」と記している。サザビーズはまた、マグリットはキャリアを通じてこのテーマに何度か触れているが、本作は純粋さと叙情性において際立っていると説明した。 「近代美術において、これほど力強くシュルレアリスムの本質を捉えた作品は、ほとんど存在しません」とボンパールは言う。「奇妙な並置と予期せぬ詩情を同時に湛えたイメージとして、《La Magie Noire》はありふれたものを不気味なものへと変容させる、マグリットの卓越した才能を体現しているのです」 アリス・ロルジュがこの作品を購入したのは、夫であるベルギーの実業家エミール・アップとの第一子の誕生を祝うためだった。スザンヌの夫で劇作家のクロード・スパークはマグリットと個人的に面識があり、家族の肖像画を依頼するとともに、マグリットに対して毎月定額の援助を行なっていた。シュルレアリスムに興味を示すコレクターがほとんどいなかった時代において、これは信念に基づいた稀有な支援だったと言える。 1939年に第二次世界大戦が勃発した際、スザンヌと夫のクロードはパリに住んでいた。ナチスによる占領後、スザンヌはフランスのレジスタンスに加わり、旧ソビエト連邦に情報を流した諜報部隊「赤いオーケストラ」に参加。その後スザンヌは、自身の財産と人脈を活用してユダヤ人の子どもたち163人を強制移送から救い、安全な住処が決まるまで自宅に子どもを匿うこともあった。1943年10月、彼女は600人の諜報部隊員とともに逮捕され、1944年8月12日、パリが解放される2週間前に秘密警察によって処刑された。この英雄的行為を讃え、彼女はのちにイスラエルから「諸国民の中の正義の人」として顕彰されている。 一方、美術史的観点から見れば、クロード・スパークによるマグリットへの初期の支援は、先見の明があったと言える。シュルレアリスムはその後20世紀を代表する運動のひとつとなり、昨年には100周年を記念して、パリのポンピドゥー・センターやフォートワース現代美術館など各地で大規模な展覧会が開催された。これに連動するように、シュルレアリスム作品の市場価値も急騰している。2024年にクリスティーズ・ニューヨークで開催されたイブニング・セールでは、1954年に制作されたマグリットの「光の帝国」シリーズの1点が1億2120万ドル(当時の為替で約188億円)で落札され、シュルレアリスム作品の最高額を更新した。 ボンパールによれば、《La Magie Noire》は「世界中で20回以上の展覧会に出品されてきた」という。直近では2024年にシドニーで展示され、その後ブリュッセルのマグリット美術館で最も賞賛を集めた作品のひとつとなった。 この絵画は10月17日から23日までサザビーズ・パリで展示され、翌24日に競売にかけられる。