三の丸県庁舎誕生(昭和5年)㊥ ゼネコン汚職事件で東京地検特捜部が家宅捜索 いばらきの昭和100年

昭和44年に茨城県庁入りした寺門義一は、農業経済課に配属された。春には庁舎の敷地内で桜が咲き誇り、寺門ら若手が花見の場所取りをした。一般県民と隣り合わせの宴は、県職員の大規模定期異動が6月から4月に変わるまで続いた。 その寺門が59年に異動した地域整備第1課で担当したのが、「水戸対地射爆撃場」の跡地利用問題だ。 ■県の起死回生策 現在の国営ひたち海浜公園(ひたちなか市馬渡)や常陸那珂港(同市阿字ケ浦町)といった開発エリアは、旧日本陸軍の飛行学校を昭和21年に連合国軍が接収し、米軍が爆撃訓練などに使用していた。 32年8月には、低空飛行した米軍機が自転車に相乗りする母子に接触、死傷させる「ゴードン事件」が発生するなど、住民の被害が相次いだ。県民挙げての射爆撃場返還運動が巻き起こり、46年に訓練は停止され、48年に返還された。 1182ヘクタールの広大な跡地は56年に国有財産中央審議会の答申で、3分の1は国、3分の1は地元自治体が港湾や公園などへ利用することになった。一方、残る3分の1は当分の間、使われない留保地とされた。 県は「新しいまちづくりに必要なにぎわいを生み出すよう活用を」と約340ヘクタールの留保地について、土地利用制限の解除を国に求めた。寺門らは「基本的な話はつけた」と知事の竹内藤男に大蔵省理財局との折衝へ送り出されたが、国有財産を守りたい相手はなかなか首を縦に振らなかった。 「ならば、国有地(留保地)に土地区画整理事業をかけよう」。正面からは拒めない県の起死回生策に理財局も折れ、63年に留保地の解除が認められた。340ヘクタール中、90ヘクタールが工業用地として県に払い下げられ、残り250ヘクタールの土地区画整理で生まれた60ヘクタールの県有地はショッピングモールなどに売却・活用された。 ■地下室に火薬壺 42年に入庁した野上公雄は港湾課の新人時代、県庁の地下倉庫で表面に緑青が吹き出し、高さ1メートルを超す銅の壺を見つけた。常磐神社(水戸市常磐町)に同様の壺が保管され、水戸城址で発掘された水戸徳川家に伝わる「火薬壺」と判明したが、なぜ県庁の倉庫に眠っていたかは謎だった。 野上が広報課課長補佐で報道担当だった平成5年7月、県庁は〝激震〟に揺らぐ。トップの竹内が総合建設会社から多額の裏献金(賄賂)を受け取ったとして、東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕された。いわゆるゼネコン汚職事件だ。

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