追悼 内館牧子さん 談(かたる)インタビュー(1)泣き虫、内気な幼児 相撲熱中し性格一変(2016年の記事を再掲します)

テレビドラマの脚本を中心に、小説やエッセー集の執筆で活躍する内館牧子さん。性差別や年齢差別の問題に切り込み、社会派でありながら娯楽性の高い作品を連発する。女性初の横綱審議委員を経験し、50代で東北大大学院を修了した。「何歳からでも挑戦はできる」と説く内館さんに人生の転機を振り返ってもらった。(6回続き) ■ <内館さんは秋田市土崎で生まれた。父は盛岡市出身の洋さん。勤務先で母洋子さんと見合い結婚をした> 父は早大水泳部に所属し、国体や日米対抗の国際大会に出たスポーツマンでした。卒業後、日本冷蔵(現ニチレイ)に勤めました。 3歳半の時、父の転勤で新潟市に引っ越しました。でも、母は私と3歳下の弟を連れてしょっちゅう秋田の実家に帰っていました。 母方の祖父(嘉藤小三郎さん)にはとてもかわいがられました。報知新聞の秋田支局に勤め、左翼活動で逮捕された異色の人物です。後に秋田市議を務め、建設会社を設立しました。私は祖父の豪放な性格に多大な影響を受けました。 ■ <内館さんは新潟で公立幼稚園に入ったが、長続きせず中退した> ■力士の物語を創作 家庭で甘やかされて育った私は社会性がなかった。先生に呼ばれて返事ができないし、お手洗いに1人で行けない。他の子にいじめられ、泣いてばかりでした。ベビーブームの世代でクラスに60人ぐらい子どもがいるため、先生は私を持て余したのです。とうとう母が呼ばれ、「やめてくれ」と言われました。 やめたらホッとしました。自宅にこもってラジオの相撲中継を聴くようになりました。力士の星取表を作って勝敗を書き込みました。相撲の記事を読むため、父から漢字の読み方を教わりました。チラシの裏に「鏡里の1日」「吉葉山の少年時代」なんて物語を書いてました。 おかげで書き取りや計算ができるようになったのです。小学校に入った時、先生がノートを見て「内館さんはすごいよ」と褒めてくれました。同級生に取り囲まれ「字がきれい」と感心されました。 すっかり自信が付いた私は遠足の時、旗を持って先頭を歩くほど明るい性格に変わりました。 ■<小学3年で父洋さんが再び転勤になり、東京都大田区に引っ越した。雪谷小、雪谷中から田園調布高に進み、水泳部に所属した> ■父のしつけ厳しく 父は当初、姉弟のどちらかを水泳の選手にしたかったのでしょう。でも2人とも才能がなかった。私は区大会で予選落ちし、別の大会で決勝に進んでも入賞はしませんでした。父から「タイムは」と聞かれ、1度も本当のことは言いませんでした。 弟は軟弱だから、「水泳やりたくねえ」と言ってバンドを組んで音楽に熱中していました。 私は体育会系の父から厳しくしつけられたことで、忍耐強くなりました。脚本家として独り立ちする上で役に立ちました。 (聞き手は生活文化部・喜田浩一) うちだて・まきこさん 1948年生まれ。武蔵野美術大卒。三菱重工業勤務を経て87年脚本家デビュー。第1回橋田寿賀子賞、文化庁芸術作品賞を受賞。元横綱審議委員、東日本大震災復興構想会議委員。武蔵野美術大、ノースアジア大客員教授。東京都在住。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする