すべては尖閣沖の衝突から始まった 国際政治学者・細谷雄一が読み解く日本の経済安保の原点

イランによるホルムズ海峡封鎖が、日本の経済安全保障への関心を一気に高めている。2026年3月に行われた日米首脳会談では、高市早苗首相がレアアースなど資源・エネルギーの経済安全保障についてアメリカとの連携強化を打ち出した。何が日本をそこまで突き動かしたのか。そして、日本はどこへ向かうべきか。国際政治学者、地経学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授が、その原点を読み解く。(第1回/全2回) ※地経学とは 技術・市場・資本など経済的手段を用いて、国家が国際社会にパワーを行使している現状を「地政学×経済」の視点から読み解く分析の枠組み。 (本書は3月刊の朝日新書『はじめての地経学 経済が武器化した時代の見方』(国際文化会館 地経学研究所 編)からの切り出しです) ■安全保障と経済は、もはや切り離せない 第二次安倍晋三政権下の2013年12月に、日本ははじめて包括的な「国家安全保障戦略」を策定した。だが、それはあくまでも外交戦略と防衛戦略を統合するものであって、必ずしも通商政策や経済安全保障を包摂するような内容ではなかった。14年1月に新たに設置された国家安全保障局は、その後の国際情勢の推移や国内からの要請によって、次第に対処する課題に経済安全保障の問題も含める必要性が増していった。 その後、20年4月には、国家安全保障局において新たに経済班が発足した。それは新型コロナ感染症が急速に拡大する時期と重なり、感染症の経済への影響もまた、司令塔としての国家安全保障局における分析の重要な対象となった。さらには、22年2月のロシアによるウクライナ侵略は、ロシアに対する経済政策を強化することで、これまで以上に経済安全保障が、エコノミック・ステートクラフト(政治的目的を達成するために、軍事手段ではなく経済的手段を用いて他国に影響力を及ぼすこと)の役割が重要となっている。 さらには、中国による経済的威圧への対抗が重要な課題となる中で、米中間での経済的なデカップリングが進行することに対して、日本としてどのように対応するか、大きな関心が寄せられている。このようにして、地経学時代における日本は、安全保障問題と経済問題を総合して対処するようになり、新しいアプローチで国民の安全や繁栄を確立していくようになる。 2010年代から20年代にかけて、中国は急速に軍事力を増強することに加えて、経済相互依存の「武器化」を進めていた。日本の地経学戦略は、それに対応する必要性のなかから発展していったといえる。また同時にそれは、アメリカが「大国間競争」に基づく国家安全保障戦略の下で、中国に対してより強硬な対抗姿勢を示すようになる時期とも重なっていた。米中対立は経済的なデカップリングやデリスキングへと帰結し、安全保障上の対立関係は経済面でのサプライチェーンの再編へと繫がっていった。それとともに、日本国内でも地経学の視座から戦略を検討する必要性が、より幅広く認識されるようになった。 これは近年の新しい動向ともいえる。かつての冷戦時代においては、安全保障問題と経済問題を総合的に捉える視座が稀薄であった。第二次安倍政権時に「国家安全保障戦略」策定に携わった兼原信克・元内閣官房副長官補は、その著書の中で、「日本の経済界は、冷戦中、米国の軍事産業のようにソ連と対峙する厳しい部分には目を向けず、ひたすら、自由主義経済圏のなかで経済成長に専心した」と論じている。平和国家としての日本は、経済界を中心として、軍事問題や安全保障問題は自らが関心を寄せるべき問題の外側に位置づけるようになり、それらが自らの経済活動と密接な連関を持つものとは捉えていなかったのである。 ところが、ポスト冷戦時代になり、「これから米中関係の緊張が高まると、日本企業は、おそらくはじめて安全保障問題と経済問題の交差する部分で悩むことになる」と、兼原は論じている。事実、その問題への対処の必要性への認識こそが、2022年5月に経済安全保障推進法が成立することの大きな契機の一つとなっていた。そして、経済安全保障推進法の下で、岸田文雄政権は積極的に、経済安全保障問題を自らの政権において取り組むべき中核的な課題の一つとして位置づけるようになる。 2020年初頭からの世界における新型コロナの感染拡大は、医療現場で使われるマスクやフェイスシールドのような戦略物資のサプライチェーンの強靱化の必要性を認識させるようになった。国民の生活や安全に不可欠な戦略物資の国内での生産拡大について、喫緊の問題として政府は対処せねばならなかった。さらには、22年2月に始まったロシアによるウクライナへの侵略は、ロシアに対する経済制裁の拡大の必要性を高めるとともに、エネルギー価格の高騰という問題への対処の必要性をも認識させるに至った。これら一連の動向は、それまで以上に安全保障問題と経済問題が不可分の一体となっている現実を、日本国民に認識させる結果となった。 ■中国の「レアアース外交」が日本を目覚めさせた 中国が自らの政治的な目的を達成するために、経済力を使って圧力をかけるようになった端緒は、2010年の尖閣諸島近海の日本の領海で操業中の中国漁船が巡視船に近づき衝突した事件だ。民主党政権下の10年9月、日本の海上保安庁が巡視船に体当たりした漁船船長を逮捕した後、中国は日本へのレアアースの輸出を禁止し、船長の釈放を迫った。これはまさに、経済における力を政治や外交において自らの目的を達成するための手段として利用した最初の重要な事例となったのである。 その後、2012年12月に自民党が政権に復帰して公明党との連立政権として安倍晋三政権が成立すると、自民党は次第に経済安全保障に対して必要な法整備を行う必要を認識するようになる。そのためにも、自民党は20年に新国際秩序創造戦略本部を設置して、同年12月には「『経済安全保障戦略策定』に向けて」と題する提言書を発表した。そこでは、13年の「国家安全保障戦略」が、「国益を経済的な面からいかに実現していくかといった視点は明確には盛り込まれていない」という問題意識からも、「わが国をとりまく環境が急速に変化する今、経済面からわが国の独立と生存及び繁栄をいかにして確保していくか、そして自由、民主主義、基本的人権の尊重といった普遍的価値やルールに基づく秩序をいかに維持していくかについて、包括的・戦略的に考え抜き、明確な時間軸をもって主導的に動いていかなければならない」と書かれている。 その上で、この提言書の中では、「戦略的自律性」と「戦略的不可欠性」という二つの重要な概念が盛り込まれている。この概念は、この後の日本政府における経済安全保障政策、さらには地経学戦略における重要な基礎となっていった。そして、2022年5月に、経済安全保障推進法(正式名称は、「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律」)が国会で承認され、他の主要国に先駆けて経済安全保障法制が制定され、政府の政策として採り入れられるようになっていった。 「経済安全保障」を抜きにしては語れない時代に、日本はどこへ向かうべきか。その答えを読み解く鍵が、朝日新書『はじめての地経学 経済が武器化した時代の見方』の一冊にある。

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