袴田ひで子さんが弟の無罪を信じ抜いた60年 いま「検察抗告」に反対する理由

再審開始決定への検察抗告を原則禁止とする刑事訴訟法改正案が、近く閣議決定され、国会に提出される見通しだ。 だが、冤罪(えんざい)被害者や支援者からは、なお懸念の声が上がる。「袴田事件」では、再審開始決定に対する検察側の抗告により、再審の裁判が始まるまでにさらに9年を要した。 事件から60年間、弟・巌さんの無実を信じ続けた袴田ひで子さんの歩みから、制度改正の意味を考える。 * * * ■陰口に負けなかった姉 「言いたきゃ言え。もし言ってきたら、『あんた見てたのかね』って言ってやろうと思って。腹を決めて開き直ってました」 袴田ひで子さん(93)は、そう言って笑った。弟が人を殺したというのなら、その現場を見ていたのか。見てもいないのに何がわかるというのか、という憤りでもあった。 今から60年前の1966年6月30日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、みそ製造会社の専務一家4人が殺害される事件が起きた。世にいう「袴田事件」だ。 事件から49日後、強盗殺人などの容疑で逮捕されたのが、この会社の従業員だった弟の巌さん(90)だった。当時30歳。ひで子さんは33歳だった。 1933(昭和8)年、ひで子さんは静岡県西部の浜名湖近くで生まれ、育った。6人きょうだいの上から5番目で、一番下が巌さん。3歳下の弟はおとなしい性格で、ひで子さんの後をちょろちょろとついて回った。 戦後まもなく、ひで子さんは中学卒業後、15歳で税務署に事務見習いとして就職した。だがお茶くみのようなことばかりさせられるのが嫌で、13年勤務した後、民間の税理士事務所に転職し、経理の知識を身につけた。その後、知人が経営する会社に経理として入った。社会人としての自信もつき、人に縛られることなく自立し、充実した日々を送っていたころ、事件は起きた。そこからひで子さんの人生は一変した。 ■死刑判決と支援の日々 巌さんは逮捕されて以降、一貫して容疑を否定し続けた。しかし1日平均12時間、計約430時間におよぶ過酷な取り調べを受け、逮捕から20日目に「自白」した。ひで子さんは、家族で一致団結して「巌を助けよう」と署名活動をし、面会にも行って励ました。 だが68年9月、静岡地裁で死刑判決が下された。「相当なうそつき」など巌さんの人格をおとしめるような報道が相次ぎ、陰口をたたかれ、街を歩くとひそひそ話が耳に入ってきた。 気丈に振る舞おうと思っても、心と体がぼろぼろになった。人付き合いを避け、家にこもるようになった。眠れない夜が続き、気がつけば毎晩のようにウイスキーをあおるようになった。 「巌のことばかり考えていると、眠れなくなっちゃう。明日も仕事があるのに、クイクイ飲んで寝る。アルコール依存症の手前までいきました」 酒浸りの日々が3年ほど続いたという。そんなひで子さんを変えたのは、支援者の存在だった。報道は事件への関心を呼ぶことになり、少しずつ支援の輪が広がっていた。 しかし、80年11月、ひで子さんが47歳を迎えた年の冬、最高裁が上告を棄却し、翌12月に巌さんの死刑が確定した。ひで子さんは振り返る。 「あのときばかりは、支援者から弁護士まで、みんな『敵』に見えました」 一方で、このころから巌さんの精神状態は悪化していった。東京拘置所の3畳一間の独居房に閉じ込められるうちに拘禁反応の症状が進み、死刑の恐怖にさらされ続け心がむしばまれていった。「私は全知全能の神」などと妄想を口にするようになり、「姉はいない」と面会も拒んだ。約3年半、ひで子さんは巌さんと会えなかった。

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