世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件から四半世紀以上が経つ。2015年には、加害者である酒鬼薔薇聖斗こと「少年A」が手記『絶歌』を上梓し、多くの人が彼の「更生」に疑問を抱いた。 そもそも少年事件における「更生」とは何を意味するのか。少年事件における加害者の扱いはどのような変遷を辿ってきたのか。そして、加害者と被害者に、私たちができることはあるのか──。『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』を上梓した川名壮志氏(毎日新聞記者)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター) ──酒鬼薔薇聖斗こと少年Aは、果たして更生したと言えるのでしょうか。 川名壮志氏(以下、川名):まず、日本の少年法では加害者の「更生」について、明確な定義がなされていません。その一方で、国が少年事件の加害者の更生について重要視していることは「再犯をしないこと」です。 再犯をしていないという観点では、少年Aは更生したと言えなくはありません。私は彼の更生に関わった人たちに取材をしてきました。少年Aに対し、彼らは非常に真摯に向き合っていたということは断言できます。 けれども、少年院を退院してから約10年後の2015年に、少年Aは手記『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』(太田出版)を上梓しました。これは、彼が未熟な自己顕示欲をいまだに手放せていないことを示唆しています。 『絶歌』が出版されたとき、私たちは少年Aの更生を主導した国や施設の取り組みがパーフェクトではなかったと感じざるをえなかったのではないでしょうか。 もちろん、更生の取り組みのすべてが無意味だったとは言いません。更生関係者が努力し、少年Aが少しずつ社会復帰への階段を上がっていった点は、評価すべきだと感じています。 ──川名さん自身は、少年事件の加害者の「更生」をどのように定義していますか。 川名:正直なところ、いまだによくわからないのです。 「こうせい」と聞くと「更正」という言葉を思い浮かべる人もいるかと思います。けれども、少年事件で「こうせい」と言えば、「更に生きる」と書く「更生」を指します。つまり「たとえ過ちを犯しても、その先を生きる」ということが、日本の少年法における加害者の更生のコンセプトです。 「更生」は「生まれかわる」「甦る」とも表現できます。ただ、果たしてそれは、被害者や被害者関係者が納得できるものなのか。 「罪と向き合い、贖罪を通してその先を生きる」のであれば、それは非常に有意義です。でも、罪と向き合うことをせずに加害者が更生できると国が捉えているのであれば、その更生に意味があるのか、私はいつも疑問に感じています。 ──昭和の半ば頃まで、少年事件の加害者たちは、実名報道や顔写真の掲載というように、マスメディアから大人同様の扱いを受けていたとありました。いつ頃から、どのような理由で、少年事件の加害者を特別に扱うようになったのでしょうか。