教団施設の面影なく 山梨・旧上九一色村 オウム教祖逮捕30年 地元紙OB 「盲信」世情に危機感も

オウム真理教による地下鉄サリン事件と教祖の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚=執行時(63)=の逮捕から今年で30年。当時、猛毒サリンが製造された教団施設があった山梨県の旧上九一色村(現富士河口湖町)に施設の面影はほとんど残っておらず、富士山を間近に望む草原が広がる。5月下旬、現地を訪れ、関係者を取材した。 教団が旧上九一色村に進出したのは1988年8月。「サティアン」と呼ばれる施設を次々と建設した。地元住民はオウム真理教対策委員会を立ち上げ、退去を要求。しかし教団は建設を続け、94年7月ごろにはサティアン群がそろった。 ■闘争 信者は住民の通行を妨げたり、夜間に建設工事をしたりし、トラブルを起こしていたという。対策委員長を務めた江川透さん(89)は「教団を怖がる住民が多く、何とか撤退させねばと思った」と回顧した。 住民とともに24時間体制で教団施設を監視するなどして警戒し、一刻も早い退去を求めた。10年間にわたる「命がけの戦争」だった。信者の脱走を手助けしたこともあった。 95年3月20日、14人死亡、6千人以上が重軽症となった地下鉄サリン事件が東京都内で発生。約2カ月後の同5月16日、松本元死刑囚が逮捕された。住民側には、前日に警察から通知されていたという。 身を潜めた教祖が捜索の末に逮捕された知らせを聞くと「もう少し早く捕まってほしかったが、これ以上犠牲者が出ないと思いほっとした」。 ■表情 逮捕の瞬間を撮影しようと、松本元死刑囚の住居である第6サティアン周辺は300人の報道陣が待ち構えた。ただ、朝霧が立ち込めていて、取材エリアからは松本元死刑囚の表情をうかがえない状況だった。 そんな中、松本元死刑囚が護送される車内での表情を最も鮮明に撮影したのは、地元紙の山梨日日新聞カメラマン(当時)の靍田圭吾さん(71)。中央自動車道に入る河口湖インターチェンジ(IC)料金所で護送車が止まり、後部座席が見える一瞬を狙った。 逮捕された松本元死刑囚の表情を捉えた1枚のスクープ写真が世界を駆け巡り、事件の転機を伝えた。靍田さんは「読者は逮捕された姿の写真を見て、一つの区切りをつけられる。初めて新聞の写真の役割を教わった」と振り返った。 ■跡形 教団施設は98年12月までに全て解体。第6サティアン、サリンが製造されていた第7サティアンの跡地は草木が生い茂っていた。 目黒公証役場事務長の仮谷清志さん=当時(68)=が拉致監禁の末に殺害されたり、リンチで殺された信者の遺体が焼却されたりした第2サティアン跡地は公園となり、片隅には住民の要望で建てられた慰霊碑がある。 碑に「オウム」の文字はない。時間の経過とともに教団の悪行が風化する中、当時を知る住民の多くは教団について「いい思い出ではないので伝えたがらない」(江川さん)。 一方で、靍田さんは現在の世情を踏まえ「今もリーダーを妄信して突き進む風潮がある。われわれが知っているオウムの世界とさほど変わらず、怖さを感じている」と危機感を示した。 茨城県では当時、教団施設があった旧旭村(現鉾田市)と旧三和町(現古河市)で信者が転入して以降、住民が反対運動を繰り広げた。 1989年11月の教団による坂本弁護士一家殺害事件では、坂本堤弁護士=当時(33)=の妻、都子(さとこ)さん=同(29)、ひたちなか市出身=も犠牲となった。

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