「スラリとした美人」「指にはダイヤが」18歳で人気芸者→社長の愛人に…大汚職事件で日本中から注目された「初代秀駒」とは何者だったのか?

「犯罪の陰に女あり」という表現は、いまは女性蔑視と捉えられるかもしれない。かつて疑獄と呼ばれた大型汚職事件には、必ずといっていいほど女性の名前が登場した。しかし、そのほとんどは、中心人物である男性の愛人ら関係者としてだった。日本が圧倒的な男社会だったことの表れといえる。 今回取り上げるのは、ロッキード事件(1976年摘発)以前は「戦後の二大疑獄*」と呼ばれた2つの事件。ここには、同じ芸名の2人の女性が登場する。「秀駒」と名乗った彼女らは、事件の渦中で何を考え、その存在にはどんな意味があったのだろうか。 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/ 続きを読む ) *疑獄=政治問題としてとりあげられるような、大規模な贈収賄事件 ◇◇◇ 「戦後の二大疑獄」のまず1つは、1948年に摘発された「昭電疑獄」だ。昭和電工の日野原節三社長が復興金融公庫(1947年に設立された経済復興を目的とした政府機関)から約23億円(現在の約237億円)という巨額の融資を受ける際、膨大な運動費をばらまいた事件。 福田赳夫、大野伴睦ら、のちの首相や大物政治家らが次々逮捕され、芦田(均)内閣が総辞職に追い込まれた。のちに芦田前首相自身も逮捕されるという「戦後の混乱期の中で政、財、官界を巻き込んだ疑獄事件だった」=田中二郎・佐藤功・野村二郎編『戦後政治裁判史録1』(1980年)。 しかし、日野原ら数人が有罪になっただけで、ほかは無罪に。占領下の当時は民主、日本社会、国民共同党の3党連立内閣で、日本を統治する連合国軍総司令部(GHQ)の民生局(GS)が支援。これに対して参謀第2部(G2)は野党の民主自由党(民自党)を政権の座に就けようと画策。昭電疑獄はそれらの動きに利用された。 日野原は山梨県出身の1903(明治36)年11月生まれ。親交が深かった経済ジャーナリスト三鬼陽之助の『経済事件の主役たち』(1968年)などによれば、甲府中学4年から旧制一高(現東大教養部)に進学。1927(昭和2)年、東京帝大(現東大)独法科を卒業した。生命保険会社をはじめ天然ガス、不動産、化学、木材などの会社の幹部・役員を歴任し、鉄道工業常務と昭和化成社長を兼務。化学工業に強い関心を持ち、日本水素工業社長となった後、1947年に肥料生産日本一といわれ「森コンツェルン」の中核企業だった昭和電工の社長に就任した。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする