野坂昭如、高畑勲、中沢啓治……それぞれの戦争体験とは? 「戦火の下の子どもたち」の生き方

小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。 終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第三回は「戦火の下の子どもたち」と題して、野坂昭如、高畑勲、中沢啓治の戦争体験を振り返る。 ■野坂昭如:『火垂るの墓』の虚像と告白 アニメ映画『火垂るの墓』の原作者として知られる野坂昭如だが、同作の主人公の清太と現実の作者の体験は似て異なり、野坂はみずからそれを何度も言及している。 野坂の生地は神奈川県鎌倉市だが、生後間もなく母が亡くなり、兵庫県神戸市に住む母の妹夫婦の養子となった。自分が養子だと知ったのは、日米開戦が起こった1941年のことだ。野坂の『アドリブ自叙伝』(現在は『人間の記録 188 野坂昭如』(日本図書センター)に収録)によれば、当時の神戸は、海軍の観艦式も行われる港町なので、子供たちの誰もが軍艦の型や性能に詳しかったという。また、近隣住民や父の仕事関係者には朝鮮人、中国人、インド人、ドイツ人なども入り混じり、国際色豊かな環境だった。ただ、朝鮮人や中国人の学友が公立学校を受験しにくい立場だったことを「考えたこともなかった」と記している。 戦時下の1942年4月、養父母は生後2か月の娘を養女にするが、10か月ほどで病没してしまう。続いて1944年の初夏、また生後間もない恵子という養女を迎えた。これが『火垂るの墓』での節子のモデルになった現実の野坂の妹だ。養母は子供が産めない身体だったので、なお子供に愛着が深く、なまじ一人目の女の子を手塩にかけて育てただけに、あきらめきれなかったのかもしれないと野坂は推察している。 戦局が押し迫った1945年、神戸市立第一中学校に在学していた野坂は高射砲陣地構築の作業に動員された。同年2月以降、神戸はたびたび空襲に見舞われる。そして6月5日、野坂の家も焼夷弾の直撃を受ける、煙と猛火の中で父と母を呼ぶが返事はなく、そのまま炎上する家から親を見捨てて逃げ出した(のちに養母は助かったと判明)。 野坂はひとまず、幼い恵子とともに西宮の親類の家に身を寄せる。この家にいた2歳上の娘に恋心を抱いていたものの、別の親類を頼り、より安全と思われた福井県坂井市に疎開して同地で終戦を迎えた。その間、一緒にいた恵子の身体から虱を取ったり、おしめを洗濯することを厭わなかったが、当時の食糧事情は極めて悪く、まだ2歳に満たなかった恵子は、終戦から間もない8月22日に栄養失調で亡くなってしまう。 『アドリブ自叙伝』には、終戦を迎えたとき、「八月十五日ではなく、六月一日に玉音なるものが放送されていたら、ぼくの家族も死ななくてすんだ」と腹を立てたことが記されている。また、『ジブリの教科書4 火垂るの墓』(文春文庫)に収録された高畑勲との対談では、灯火管制がなくなり、町に灯りが戻ったことが、逆説的に「こわかった」と語っている。闇の中の暗い世界に生きる覚悟を固めていたからだ。 その後、別の親類のもとで過ごしたのち上京。食料難のため盗みを働いて少年院に入るが、実父が保証人となったことを機に、養父母の姓から野坂の姓に戻った。 時は流れ、1967年、妹への鎮魂の念から野坂は『火垂るの墓』を執筆、闇市時代の体験を記した『アメリカひじき』とともに、第58回直木賞を受賞する。 受賞の直後から野坂は、自分の小説が事実そのままではないことをさまざまな場で語っている。とりわけ、1972年に刊行された『俺はNOSAKAだ』(文藝春秋)の記述は露悪的だ。空襲で家を失った直後、役所が発行する罹災証明書を手に入れたおかげで、列車の切符は無料、米、毛布、乾パン、缶詰を方々でもらい、小学校の教室に泊まることを許され、「運よく難まぬかれたものが、逆にひがむほど」だったという。そして、「主人公と俺を同一視する向きがあるけれど、俺ははあんなにやさしくはなかった。一歳半の妹の頭もなぐったし、その食い扶持を奪い、二つ年上の女とけっこう遊び歩いていたのだ、罹災証明書を武器に」と記す。 確かに小説は悲劇的に粉飾されているが、終戦時に14歳だった野坂自身、自分が直面した現実を整理しきれず、そのまま書くことはできなかったのだろう。 アニメ映画『火垂るの墓』の公開はバブル期の1988年、併映の『となりのトトロ』を楽しみに来た観客たちは、その救いのないラストに愕然とさせられた。野坂自身は、この映画に激しく涙し、最後まで観通すことに耐えられなかったという。 ■高畑勲:炎の中で闇夜をさまよった「人生最大の事件」 高畑勲は、多くの著作やインタビュー記事で、自分の監督作品である『火垂るの墓』は「反戦映画ではない」と語っていた。その背景にある心理は複雑だ。 伊勢神宮のある三重県宇治山田市(現在の伊勢市)が高畑の故郷だ。父の高畑浅次郎は中学校の校長を務めており、幼少期は父の転勤にともなって、三重県津市、さらに岡山県岡山市に移り、1942年に岡山県立師範学校男子部付属国民学校に通う。 エッセイ集『アニメーション、祈りにふれて』(岩波書店)に収録された「お国自慢」という文章によれば、当時の高畑は岡山の低い山や瀬戸内海のさざ波を物足りなく思い、信州の峻厳な山岳や太平洋の荒波のような景色に憧れたという。同書の「戦争とアニメ映画」という文章では、1944年に公開された海軍省指導の国策アニメ映画『桃太郎 海の神兵』の技術水準の高さ、多くのスタッフが徴兵されたこと、戦時下にこの作品を観た手塚治虫が大きな影響を受けたことを述べているが、当時自分も観たとは記していない。 「人生最大の事件」と高畑がみずから語るのが、1945年6月29日の岡山大空襲だ。戦後70年を経た2015年、岡山市民会館で行われた戦没者追悼式での講演をまとめた、『君が戦争を欲しないならば』(岩波書店)には、その内容が詳しく語られている。 夜中、外の騒がしさに気づいて目を覚ますと、空襲警報がないまま南西の空が赤くなっている。家の前に飛び出すとすでに多数の人々が避難を始めており、父母や兄らの姿を確認するまでなく、姉とともに必死に東の方角へと向かった。 町の中を逃げまどううちに次々と焼夷弾が降り注ぎ、周囲は行き場のない火の海となっていく。父母や兄らは無事なのかもわからず、不安は収まらない。目の前で姉は爆発に巻き込まれて身体に幾つも破片が刺さり、高畑はどうにか姉を助け起こした。空襲が収まったあとには、大量の煤を吸い込んだ黒い雨が降りはじめる。運よく姉の知人に会ったのでその家に泊めてもらったのち、大量の死体が転がる市街でほかの家族を必死に探した。2日後、ようやく別途に逃げていた父母や兄らと再会を果たした。 また、『私の戦後70年談話』(岩波書店)では、当時9歳の高畑はまだ軍国少年になっていたものの、終戦による時代の激変や年長者の動揺に直面して、「世の中に絶対的な価値というものはなく、何事も相対的であるらしい、ということを幼くして学んだ」と述べる。これは、10〜20代で終戦を迎えた世代の多くに共通する感慨だ。 ちなみに、高畑の父の浅次郎は独特の信念を持つ教師だった。終戦直後、昭和天皇が巡幸で岡山を訪れたときは、「ありのままをお見せしなければご巡幸の意味がなくなる」と考え、粗末な校舎も校長室は普段通り、特別な椅子を用意することもなく迎えたという。浅次郎は後年、教育界での功績により岡山県初の名誉県民の一人になった。 戦後の高畑は、東京大学教養学部文科二類に進学したのち、東映動画に入社して同僚の宮﨑駿、大塚康生らと親交を結ぶ。子供のための表現に強くこだわり、日本アニメーションに移籍後、『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』ほか多数の作品を手がけた。 さて、冒頭に挙げたように、高畑は『火垂るの墓』は反戦映画ではないと考えていた。『君が戦争を欲しないならば』では、この映画のように「戦争がもたらした惨禍と悲劇」を描いても、「将来の戦争を防ぐためには大して役に立たない」と述べ、その理由は、戦争をはじめたがる人々はむしろ「あんな悲惨なことにならないためにこそ」、軍備の増強が必要だと主張するのだと語っている。 同書で高畑は、2005年に韓国で『火垂るの墓』の公開に対して猛反発が起こったことに触れている。それより以前にも香港の若者から、「日本の加害者としての側面が描かれていない」と指摘を受けていたので、韓国での反発に驚きはしなかったが、「それほど支配を受けたり侵略されたりしたことによる傷は深いのだ、と肝に銘じています」と述べている——まさに、敗戦を機に獲得した相対的な視点だ。ただ、続けて韓国のある大学生から、長年日本を憎んでいた祖母が『火垂るの墓』を見て涙を流した話を挙げている。高畑の作品は、国や民族を超える普遍性を持っていたのだ。 ■中沢啓治:良心的反戦漫画、ではない『はだしのゲン』 「この世の中に、童話に出てくるようなメルヘンの甘い世界がどこにあるかっ。現実のきびしさを隠し、戦争や原爆を甘い糖衣で包んで、子どもに見せれば、「戦争と原爆はこんなものか」と考えてなめてしまうのだ。」——中沢啓治『はだしのゲン自伝』(教育史料出版会)の終盤には、こんな痛烈な一節が出てくる。 漫画『はだしのゲン』の内容は、作者である中沢の体験をほぼなぞったものだ。中沢はゲンと同じく広島県広島市に6人兄弟姉妹の三男として生まれた。父の晴海はゲンの父と同じく下駄の塗装の仕事をしており、反戦主義者だった。左翼系の新協劇団にも属していた晴海は、1940年8月に特高警察に逮捕され、翌年10月にようやく釈放された。中沢の母のキミヨは当初、夫は徴兵検査を受けに行ったと説明していたという。晴海は公然と天皇を批判し、裏手に住む朝鮮人の一家にも友好的だった。中沢は自伝でそんな父を誇らしく語るが、金が稼げず母に苦労をさせたことも認め、芸術や左翼思想のため自分の家庭を犠牲にしている人間は大嫌いだと記している。 1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下される。中沢は市街が炎に包まれ、熱線に焼かれた人々がふらふらと歩く地獄絵図を目にした。父と姉の英子、弟の進は炎上して倒れた家の下敷きになって死んだ。この直後に母のキミヨが出産した妹の友子は、終戦直後の劣悪な食糧事情のため、生後わずか4か月で死んでしまう。 中沢の真の苦難は戦後にあった。キミヨが一時的に衣類や家財を預けた知人は、平然とそれらを横取りした。一家の大黒柱を失った中沢家は、広島市南部の江波の親類宅に転がり込むが、終戦直後の食料難の時期だけに露骨に迷惑がられ、キミヨは家の物を盗んだと一方的に濡れ衣を着せられる。弱者が善良とは限らない。この時期の周囲の人々の冷たい仕打ちを振り返り、中沢は「「民主主義」「愛」「平和」「正義」「弱い人を助け合いましょう」「めぐまれない人に愛の手を……」、なんと空虚で空々しい言葉と標語であろうか。人間がそんな綺麗なことを言える動物か。」と記す。 成長後の中沢は上京して漫画家となるが、東京で放射線による病気はうつるという誤解から「被爆者差別」があることを知ると、自分の体験を語ることを秘した。そんななか、戦後21年を経た1966年に母が死去したあと、アメリカのABCC(原爆傷害調査委員会)が、母の遺骸を標本として貰い受けたいと申し出たことに憤慨する。母の遺骨は、放射線障害のためか灰ばかりで骨がほとんどなかった。 この経験を機に中沢は原爆を題材とする漫画を描き始める、その第一作が1968年に『漫画パンチ』に掲載された『黒い雨にうたれて』だ。当時中沢がアシスタントを務めていた辻なおきは、同作を読んで「よくやった」と激励したが、編集長は中沢に「君と自分はCIAに捕まるかもしれん、覚悟しておけ」と語ったという。実際に終戦直後、アメリカは広島の原爆被害を報じることをきびしく取り締まった。1960年代当時も冷戦下で、まだ沖縄は返還されておらず、アメリカの影響力は絶大だった。当時、岸信介元首相ら自民党の有力政治家の一部はCIAの資金援助を受けている。 以降、中沢は原爆テーマの作品を次々と発表し、1973〜1975年に『週刊少年ジャンプ』に『はだしのゲン』を連載する。その後、同作は日教組が公認する反戦漫画として、「小学校の学級文庫で読める唯一の漫画」になった。だが、本作を教師が勧めるのにふさわしい良心的漫画と思うのは早計だ。劇中には米兵の愛人になったパンパン女も出てくる、米兵が使うコンドームが出てくる場面もあった、ゲンの旧友ムスビが麻薬(ヒロポン)に溺れる描写もある……それらもまた、中沢が焼け跡で見てきた現実だった。中沢はまさに、冒頭に引用したような心情でそれらを描いた。 中沢の戦争に対する怨念は最晩年まで衰えなかった。没後に刊行された『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社)では、2011年に初めて広島平和記念式典に参加したと述べつつ、理想の式典は「あの戦争を起こした戦犯の人形を並べて市民が石をぶつける式典です。そういう式典ならばぼくも喜んで参加したい」と記している。

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