サンパウロ市内で起きた事件に関しては、押岩嵩雄、日高徳一、山下博美、蒸野太郎、三岳久松に、計十年以上の歳月をかけて取材した。多い人は何十回も会った━━。 その間、接点があれば見つけようとした。が、全く見つからなかった。 最初は一人一人に別々の場所で会い、話を聞いた。連盟との関係について、口裏を合わせている様子は全くなかった。また合わせる必要もなかったであろう。 彼らの話の内容は、総て事実と符合していた。つまり何もかも正直に話してくれたのである。その何もかもの中で、遥か大昔に消えてしまった臣連に関してだけ、事実と違う話をする必要は全く無かったろう。 彼らは一貫して「自分たちの行動と連盟は関係なし」と明言し続けた。 関係があれば、どこかに不自然さが出る筈だが、そういうことはゼロであった。 彼らは、終始、まだるっこしくなるほど、事実を懸命に思い出そうとし、思い出せないことは軽率に口にしまいとしていた。 また、彼らが真実を話していることは、その表情、目をみれば、よく判った。取材記者を何十年もやっていれば、それくらいのことは判る。 さらに真実を話していることを確信できる一事があった。五人が、全員、自分たちのやったことに関して、 「後悔はしていない」 と言ったのである。こういうことを口にすれば、世論の反発を招くことは承知の上であったろう。現代人なら、それを計算して、 「後悔している。間違っていた」 といった類いのことを言うだろう。 しかし敢えて「後悔はしていない」と口にしたのは、総て真実を語ろうとしていたからであろう。 無論、被害者やその家族に対しては、気の毒なことをしてしまった…とは思っていたであろう。が、それと後悔とは別のことである。この辺のことは、彼らと同時代に生きた人間でなければ判るまい。 接点については、 筆者は一九四六年七、八月に地方で起きた事件に関し、微かながら、それらしきモノを見つけたことがある。 十三章で記したノロエステ線カフェランヂア界隈で七月に起きた事件の内、今井歯科医襲撃に関係のあった及川義夫が連盟員であった━━という記述を、一資料の中で見つけたのである。 また八月、パウリスタ延長線マリリアで、事件を起こした伊藤健一と猿橋俊雄は、その及川の紹介で知り合っている。 この件に関して筆者は及川をよく知る阿部牛太郎(前章参照)に訊いてみた。 阿部は、こんな思い出話をした。 「及川はサンパウロへ出て、オールデン・ポリチカの刑事たちから拳銃三十丁と弾を買って帰った。彼らは犯罪者から押収したそれを、裏でコッソリ売って小遣い銭稼ぎをしていた。その拳銃と弾はハイセンとの戦争に使うつもりだった」(オールデン・ポリチカ=DOPS、ハイセン=敗戦派) 阿部は、こうも言った。 「及川は連盟に入っていた」 筆者は、思わず阿部の顔を見直した。が、その言葉は、こう続いた。 「ただし入ったのは七、八月の事件のずっと後、彼が獄中に居った時のことだ。それ以前は関係なかった」 やはり八月、ツッパンで一人一殺方式で派手な事件を起こした加藤幸平たち三人は、地元の警察からサンパウロのDOPSへ移送されている。 DOPSは地方で起きた事件で逮捕した者が、臣連と関係がありそうな場合は、サンパウロへ移送して取調べをしていた。 加藤の父親が連盟員で支部長か何かをしていたという。 それならそこに接点があったかもしれない、と筆者は思い資料を漁った。 が、DOPSで三人とも、その関係を完全否定していた。 前章で一寸触れたが、筆者は二〇一〇年代、サンパウロでこの加藤幸平の夫人と会う機会を得た。 加藤は一九七八年に病没したとのことだった。 夫人は八十代半ばになっていた。 事件と連盟の関係については、加藤とその父親から詳しく聞いたという。 それによると、父親は連盟員であったが、加藤自身はそうではなかった。 その父親は、 「我々が獄中に居る間に、若い者が勝手に暴走してしまった」 と話していた。 ここでも接点は否定された。 ツッパンの臣連支部で青年部の指導をしていた山内房俊(前章参照)も、筆者と話をしていた時、気になる言葉を口にしたことがある。