「人間の意志の限界はどこなのか。思想に対する意志はどこまでなのか。正義感はどこまで続けられるのか。いまだにはっきりとは分かりません…」 収監生活42年4カ月。転向拒否。全身に負った拷問。その時間に耐え、さらに30年間にわたり信念を貫いた彼は、依然として人間についての悩みを抱いていた。彼は「本当に難しい問題」だと言いながらも「人として生まれ、獣として生きてはならない」と語った。ハンギョレは先月22日、京畿道金浦市月串面(キムポシ・ウォルゴッミョン)の民統線(民間人出入統制線)の教会前で「私を祖国の朝鮮に送ってほしい」と主張する非転向長期囚のアン・ハクソプさん(95)に会った。 人民軍として参戦し、逮捕され 42年間の収監生活の後、1995年に釈放 殺人的な転向工作に耐え抜く 「ここに残って米軍撤退闘争をする」とし 2000年には自ら北朝鮮への送還を拒否 現政権になって「北朝鮮に送ってほしい」 アン・ハクソプ。江華島(カンファド)出身の彼は、朝鮮戦争のときに人民軍として参戦し、1953年4月、江原道旌善郡(チョンソングン)で捕まった。アンさんは自分を「戦争捕虜」と主張するが、韓国はアンさんをスパイとして扱った。無期懲役を言い渡され、年数で43年の収監生活を送った。刑務所では思想転向を強いられた。アンさんは拒否した。過酷な拷問が続いた。「今もその痛みのせいでよく眠れません」。アンさんは身をすくめた。 囚われの身だった時代。彼は極限を行き来した。拷問は果てしなく続いた。体は限界に達し、何度も気を失った。「拷問を受けて気を失うとむしろ楽だった」というアンさんは「目が覚めたら、まず手を見た」と言った。手に朱肉がついていないか、印を押されていないかか確認するためだった。「もし降伏文書に印が押されていたら、その場で自決しようと考えました」。拷問は意識を奪ったが、彼の信念まで奪うことはできなかった。 アンさんは刑務所で「同志」たちが転向した話を回想した。「拷問を受けながら、牢屋で手を噛んで血を出し、それを混ぜて飲んで『裏切らない』と一緒に誓った同志がいたが、ある日『肺がんなのだが、今手術すれば治る』と言って転向書を書いて出所し、29日後に死んだそうだ」。「転向を要求された同志が自ら命を絶ったこともあった。曇って雨の降る日には、今でもそんな記憶が私を非常に苦しめる」と語った。 42年4カ月。その時間を耐えさせたのは、倫理だろうか、それとも理念だろうか。アンさんは「それらを分離することはできない」と述べた。アンさんにとって、米国は新しい占領者であり、人間が人間を支配する原因は資本主義だった。そんな彼にとって、社会主義は理念以前の倫理だった。アンさんは「転向自体が不正なことであり、思想を否定しろということだったのだから、人としてそうすることはできなかった」と語った。アンさんは自分を拷問した人たちを「かわいそうだ」とも言った。「ごく小さな利益のために、人に対して拷問までするというのがむしろ哀れです。人をそんなふうにさせる社会に嫌気がさします」 アンさんはいつからこのような考えを持つようになったのだろうか。彼は子どもの頃の話を聞かせてくれた。「10歳の時に初めて国民学校に行ったとき、朝鮮語の読本をもって朝鮮の人が教えるんですが、私たちは幼いからよく理解できなかった。すると先生は天井を一度仰いで、地べたを見下ろして、体を震わせながら泣いたんです。そして、ムチで私たちをひどく叩いた。『朝鮮人が朝鮮語も分からず日本語を学ぶと言うのか』と言いながら。いまでもはっきりと目に浮かびます、その場面が」。アンさんが人間の良心に向き合った一番古い記憶だ。 家に帰ったアンさんは父親に「朝鮮って何ですか」と尋ねた。父親は血相を変えて「よそで絶対にそんなことを言うな」と言った。「大人たちは何かを話していても、私たちが行くと言葉を切る。その頃から分かるようになりました。ある日には三一(独立)運動の話も出ました。儒教の家系で、周りに知識人が多いほうだったんです。彼らの話を聞いて『朝鮮』というものがあることを知りました」 アンさんは朝鮮を救う理論を知りたかった。日本で出版された左翼系の本を読みながら勉強した彼は、解放を迎えて米軍が入ってくると、その姿を注意深く観察した。1945年9月9日、京城(現在のソウル)に進入した米軍は布告令を発表した。12日、米軍は軍政を宣言した。「最初は解放軍だと思っていた」というアンさんは、軍政を見て思った。「アメリカは占領軍で、日本やアメリカのような帝国主義国家を打倒するには社会主義が必要だ」と。 彼が投獄中に思い浮かべた人々は「抗日闘士」だった。「抗日闘士は死にゆきながらも降伏せず、不義と妥協しなかった。それを考えながら耐えた」。また「李舜臣のような方も歴史の模範」だと述べた。「李舜臣が白衣従軍した後、尋問を受けて戦場に戻った時に恨みを抱いていたとしたら、国はどうなったことか」とし、「私はただ先代の烈士が敷いた道を歩いてきただけ」だと語った。 アン・ハクソプさんは今月20日、京畿道坡州市文山邑(パジュシ・ムンサンウプ)の臨津江駅の前で、北朝鮮への送還を要求した。1995年の光復節(植民地解放記念日)の特別恩赦で釈放されたアンさんは、2000年に行われた北への送還の際は「米軍の撤収のために闘う」と言って北朝鮮に戻らなかった。しかし最近、救急救命室に数回運ばれたことで「死んでも植民地に埋められるわけにはいかないと思った」という。「人間としての私の選択であり、戦争捕虜の権利」だと語った。 「老兵」の語りは、大きな声ではなかった。しかし、言葉ははっきりしていた。約2時間の会話で、アンさんはよく目を閉じて言葉を止めた。最近、頭痛が増えたという。しかし、彼はすぐに気を取り直して一言ひとことしっかりと言葉を続けた。 「私は裏切りませんでした。それが私の自負でした。人はみんな死にます。問題はどのように死ぬかということです。私は人間として、自主国家で死にたいのです」 イ・ジュンヒ記者 (お問い合わせ [email protected])